佐藤修さんが
「田中角栄 最後のインタビュー」文春新書1124/平成29年5月20日・刊
という本を書かれました。
佐藤さんがかつてブラジルの日系通信社の東京支局長をしていて、当時、田中角栄のインタビューをしたことは前々からうかがっていたので、さっそく目を通してみると、(タイトルの「最後」のではなくて)最初のインタビューは、金脈問題で総理大臣を辞した後は長い間マスメディアのインタビューに応じてこなかった角栄が、活字メディアとしては初めて応じたのが、外国メディアである佐藤さんの1980年12月16日のインタビューなのだそうです。
(取材申し込みに行った佐藤さんと、有名な早坂秘書とのやりとりが面白いのですが、それは、原典の4ページをお読みください。)
■そのときの…
角栄の話の中で、とくに興味を引いたのは前書き7ページの以下の件でした。
ブラジルの通信社によるインタビューですので、佐藤さんは、角栄が1974年にブラジルを公式訪問したときの話題から始めたのですが、角栄はおだやかな口調でこう話したそうです。
「私はブラジルという国にとっても親しみを持っているんです。これは少年時代にアマゾン雄飛を真剣に考えた頃からの感情です。ですからブラジル訪問の時もあのアマゾンの国に来たんだという気持ちでいっぱいでした。あの時は時間がなくてアマゾンには行けませんでしたが、サンパウロからワシントンヘ向う途中、大アマゾンを空からまたぐことができました。 その時、 これで一生のうちの一つの夢が実現したんだなあという思いに浸ったも のです。」
■角栄は…
大正7年生まれ。既報のとおり日本の会社/機関がアマゾン地方の開拓に着手したのが昭和初めですので、まさにその少年期と一致しています
とはいえ、今のようなテレビも(もちろんインターネットも)無く、情報チャンネルが限られているこの時代。角栄が、何を読み、あるいは聞いて(ブラジルではなく、とりわけ)アマゾンへのあこがれを持ったのかについては、興味が持たれます。
とくに、昭和初期、日本国民の興味はどちらかといえば満州に向いていましたし、ブラジルはともかくアマゾンに関する情報は、比較的限られていました(もっとも、角栄は生まれも育ちも新潟ですので「寒いところはいや」だったのかもしれませんが)。
その中で「あるいはこの種のメディアだったのかも」と考えられるのが、
・比較的高価な単行本でも
・頒布先の限られている海外移民情報専門の雑誌でも
なく、先ごろ入手した
雑誌「科学畫報」昭和5年11月号(科学画報社)
のような雑誌記事(比佐衛も座談会に加わっている)、
「拓け南米の別天地常春の国ブラジル : 各方面の権威者を集めた本社主催『移民座談会』」(東京日日新聞1932.3.2-1932.3.21 )
のような一般紙の記事
(当時は、雑誌も新聞も漢字には原則としてルビが振ってあったので、子供でも読むだけは読める。)
あるいはラジオ放送だったのではないかと思われます。
(比佐衛もアマゾンを下った第2回目の南北アメリカ大陸視察から昭和4年3月に帰国後、東京や仙台などでラジオ番組に出演して旅行談を披露している。)
この点に関しては、角栄に限らず、アマゾンの情報が日本でどのように伝播していたのかに関わる問題ですので、今後機会をみて細かく調べてみたいと思います。
■この記事は…
1981年元旦の「パウリスタ新聞」*に掲載されたそうです。
* 1947年1月創立。1998年3月に、日伯毎日新聞と合併して、現在はニッケイ新聞となっている(Wiki:邦字新聞)
【追記】2017/08/03
昨8月2日、佐藤さんから、当のパウリスタ新聞の記事(7963号6・7面)をお借りしてきた。
角栄によるアマゾンへの言及は、インタビューの終わり近くにもあって
(アマゾンを遡りたいという)「…夢はぜひ実現させるつもりです。アマゾンは大河だから大きな船で遡ることができます。しかし船着き場をつくるのが大変だから、錨を降ろして消防自動車のハシゴ車のようなものを横にスーツと出して接岸するのがいいとか、かての小さな海防艦のようなもので遡ってみたい。とかこれでもいろいろと研究しているのです。いずれにしてもあと十年ぐらいは働かされそうだからその間にはいくつもりですよ。」
と、船の接岸方法は「少年の夢」そのもの。
角栄の「アマゾンへの憧れ」なるものが、単なるブラジルの通信社へのリップサービスではなくて、本当に少年期に始っていたらしいことがわかります。
【追々記】2017/08/16
パウリスタ新聞の創始者は、
蛭田徳彌 |
という人なのですが、なんと、海外植民学校の出身者*であることがわかりました。
http://www.nikkeyshimbun.jp/nikkey/html/show/120613-71colonia.html
改めて、校友会名簿(昭和14年2月編纂)をみると、確かに、記載がありました。
*大熊智之氏の調査では、専攻科・大正11年度卒
【余談の余談】
■邦字紙といえば…
先日、ブラジルの戦前の邦字紙を閲覧できるところがないかと探してみたところ…
横浜中央図書館・本館
http://www.city.yokohama.lg.jp/kyoiku/library/
にあるマイクロフィルム
で閲覧できることがわかりました(残念ながらパウリスタ新聞はありませんが)。
【追記】
佐藤さんがインタビューの冒頭に切り出した、角栄の1974年のブラジル訪問。
現在ベレン在住の堤剛太氏が、サンパウロ新聞の記者として取材していたのだそうです。
世の中、というより地球は、広いようで狭いですね。本当に。
【資料映像】
新潟県南魚沼市浦佐駅東口の田中角栄像
筆者も、ほぼ建立当時からしばしば見ていますが、 当初は覆いがなく、 像は「雨ざらし」というか「雪ざらし」という ご本人にはお気の毒な「贔屓の引倒し」状態でした。 |