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[余録]北海道拓殖史の中の崎山家
木 村 孝
やや荷の重い話ですが…
高知といえば、筆者の小学校時代は米の二期作ができる温暖の地と教わっていた南国土佐。寒冷の地の北海道とは、すぐに頭の中で結びつきにくいのですが、誰もが土佐人中の土佐人と目する坂本龍馬の長姉千鶴の子である直寛も北海道に渡ったことで「叔父龍馬の遺志を継いだ」と言われていますし[2]、高知と北海道とは全く無縁ではないようです[3]。
北海道の拓殖史については、ここ20年ほど調べてはいるものの、主として大正末期以降、それも開拓の遅れていた根室など道東地域[4]。明治に遡る、石狩とか天塩や北見については、ほとんど手付かずだったのですが、この機会に挑戦してみることにしました。
崎山家と北海道
年譜によれば、崎山家と北海道との関わりは、以下のようになります(〔〕内は筆者補足)。
①
1883(M26).7.13 〔比佐衛〕武市安哉の聖園農場…に第一次入植…
②
1883(M26).12.2 武市安哉死亡
④ 1885(M28) .10 父常吾と義妹2人〔雪の連れ子で光江と元衛〕も北海道に入植
⑤ 1887(M30).4 開拓地を父常吾にゆだね、〔比佐衛〕東北学院普通科に入学
⑥ 1904(M37).1.2 父常吾死亡(〔高知県〕本山にて)
姉はつと共に北見モコトに移住、終生ここに定住する。
〔比佐衛〕浦臼の開拓地を整理、母〔雪〕を東京に招く。
比佐衛の北海道入植
上の①のとおり、比佐衛は明治26年、武市安哉(たけち あんさい/やすや)の「聖園農場」に入植しています。
武市は、高知県長岡郡大埇(おおそね)村(現・南国市の一部)出身の自由民権運動家であり、代議士(衆議院議員)在職中の明治25年に、所属する自由党本部の依頼で北海道開拓使の払下げ問題[7]の調査に赴きました。そのときに視察した樺戸郡ウラウスナイ(現・浦臼町中心部)に魅せられ、明治18年に高知で洗礼を受けていた武市は、キリスト教主義による理想的農村の建設を志し、すぐに、当時その一部で「貸下げ」の始まっていた樺戸集治監[8]の土地のうち630haについて、その手続きをしました。武市は、翌明治26年3月に国会が終わると、郷里であり選挙区でもあった高知に戻り、代議士を辞職するとともにこの計画を発表し、比佐衛が出会った当時は、各地を遊説して参加者や支援者を募っていたところでした。
一方、比佐衛は、3年前に勉学を志して上京したときの挫折[9]に屈することなく、広い世界への雄飛を目指して、折りに触れて機会を窺っていたようです。当時メキシコの探検旅行に出ようとしていた前田岩吉宅を訪ねて同行させてもらえるよう頼んだところ、同行は断わられたものの「友人の武市が今度青年を連れて北海道の開拓にゆく計画だから君の同行を頼んでやろう」と、武市に取り次いでくれて一行に加わり、明治26年7月はじめ高知浦戸港を発ち小樽の対岸にある手宮港で初めて北海道の土を踏んだとのことです。
一行26名は、手宮駅から「無蓋貨車」に乗って[10]幌内鉄道(現・函館本線)峰延駅で下車し、月形の教会に一夜の宿を借り、1日遅れて馬で現地に入った武市と比佐衛たちとで、合わせて27名の第1次入植者がウラウスナイ・サッテキナイに集結したのは7月13日だったといいます[11]。
「聖園農場」と名付けられた武市の開拓地〔以下「農場」〕では、第1次の比佐衛たちに続き、翌27年4月に第2次、さらに武市の死後に第3次の入植者が加わったほか[12]、明治31年、冒頭に触れた武市と自由民権運動の同志だった坂本直寛の一家が、前年入植した北見から移住し、後述の浦臼沼をはさんで「比佐衛の北西筋向い」に居を構えています[13]。
これらの入植者は、農場内の、自分で選んだ5 haの土地を開墾・耕作することができたのですが、比佐衛は、他の高知県本山出身の人たちと共に、石狩川の本流と浦臼沼という三日月湖の間の土地(現・北海道樺戸郡浦臼町字ウラウスナイ58番地?)[14]を選んでいます。
石狩川は、かつての蛇行の跡である三日月湖が多数残り「暴れ川」だったことは今ですら一目瞭然なので、まして当時は、全く手つかずの「原始河川」そのものだったはずです。
比佐衛たちが選んだ土地は、おそらくはヤチハンノキが生い茂り[15]、泥炭が地中に深く積み重なる低湿地の多い場所だったと思われます。いうまでもないことですが、浦臼沼自体が元は石狩川の本流だったのですから、上流から流れてきて堆積した養分で地味は豊かだったのかもしれませんが、洪水の危険が大きいことは一目でわかるはずで[16]、なぜ、広大な農場の中で、あえてこの場所を選んだのか、理由が思い浮かびません[17]。
国有未開地処分制度とその変遷
ところで、先に、安哉が土地の「貸下げ」の手続きをしたとしましたが、文献によっては「払下げ」としているものもあります。普通なら「貸下げ」と「払下げ」つまり借りるのと買うのとでは大きな違いがあるのですが、当時の北海道の未開地に関する限りは、実は同じことを言っているので、どちらかが間違いというわけではないのです。
明治以来、どうやって広大な北海道の未開の土地を開拓するかについては、試行錯誤の連続でした。それは無理からぬところがあって、この国では、これほど広大な未開の大地を切り拓く[18]などということは、有史以来、初めての経験だったからです。北海道拓殖を担当する官庁すら何度も変わっていますし、移住者の保護、その入植地の決め方や殖産興業のやり方もいろいろと変遷し、明治5年に国有地とすることになった[19]北海道の未開地を民間人に払い下げる方法も、次ページの表のとおり、その例外ではなかったのです。
武市が手続きをしたのは明治26年ですので、表の2つ目、19年に制定された「北海道土地払下規則」〔以下「規則」〕の時代です。規則では、土地が欲しくても、すぐには売ってもらえません。まずは、その土地の開拓の年次計画を立てて「貸下げ」、つまり借してほしいと申請する必要があります[20]。借りた土地は、その広さに応じて決められている期間内[21]に計画通りの開拓を終えなければなりません。できなかった場合は、借りたのですから土地を返すのは当然として、すでに切ってしまった木の代金も払わなければならなくなります[22]。
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北海道立文書館「[文書館資料ガイド]国有未開地処分法完結文書」中の表に加筆 |
つまり、土地が欲しければ、まずそこを借り受け、当初の計画通り、いいかえれば国に約束したとおりの開拓をしなければならず、それが出来て初めてその土地を「払下げ」つまり売ってもらうことができたのです[23]。
このような、国にとっても買い手にとっても手間のかかる仕組みになっていたのは、国が北海道の土地を売る主な目的が、代金の収入ではなく土地を開拓させるためだったからです。未開地を開拓して農業、牧畜業や工業などの産業を興すことによって、経済を発展させ、食料を増産し、税収を増やし、外貨を稼ぐ[24]ためには、土地を「塩漬け」にされては意味がなく、どうしても、実際に開拓させ「使わせる」必要があったわけです。
とくに、農業については、明治維新後の人口増加で近い将来に食糧事情が逼迫することは目に見えていました[25]。その解決のために考えられた方法の一つは、農業改良によって収穫量を増やすことです。国も力を入れて、明治13年、ドイツの学者を招いて東京目黒の駒場[26]に農学校を作りましたし、それに先立つ札幌農学校もその一環といえます。そのほか「老農」と呼ばれた経験豊かで優秀な農民の技術を普及するための講演や広報にも力を入れたのですが、これらは、事の性質上早急に効果が出るものではありません。当時、とることのできた、もう一つの方策が「農地自体を増やすこと」だったのです。
団結移住
上の表の一番右の欄をみると、規則では、貸し下げてもらえるのは、最大33町歩(町歩≒ha)のはずで、武市の申請した630 haと矛盾することになるのですが、これは、「團結移住」[27]による入植だったからだと思われます。これは、ちょうど武市が浦臼を視察した明治25年に北海道廰[28]が定めた「團結移住ニ關スル要領」によって、3年以内に30戸以上が集団で移住する場合には、全戸が移住規約を締結し、出身府県の認可を得て、第2年度まで毎年3分の1以上が移住するのなら、後から来る移住者の分も含めて1戸あたり5 haの土地をまとめて「取り置き」しておいてくれる、というものです[29]。この制度があるために、3回に亘って移住してきた農場のメンバーが、まとまって住むことができるようになったのでしょうから、武市の浦臼視察は理想的な時期に行われたことになります。
崎山松吾の転出
武市は、生前「狭い土佐の山中からここ〔聖園農場〕に来て、5町歩の土地を持ったら、えらく広い土地を持ったように思うであろう。しかし今にまた狭く思うようになる。聖園を拓いたら、さらに広いところに出て行くんだね。そして第2、第3の聖園を作ってくれ給え、まあ、ここはそういう人たちにとって学校のようなものさ。」と常々言っていたといわれています[30]。
比佐衛も、まさに「広いところへ出て行」った一人ですが、そのほかにも、多くの人たちが、この農場から、北海道の奥地へ、さらには外国へと巣立ってゆきました。比佐衛の弟の松吾も、広い意味では、間接的に武市の教えに従った一人ともいえます。
もっとも、5町歩つまり5 ha というのは、当時、家族4人つまり夫婦2人+老人または子供2人が、5年間の期限のうちにあらかた開墾でき、以後、その農地で食べてゆけると考えられていた面積です。そのため、開拓に成功し更に広い農地で収益を増やしたいなら、ここの農場の場合は、入植者が多く「人口密度」が高かったので、近所の転出する人から農地を買えるといった幸運にでも恵まれない限り、転出する必要があったのだと思います。
加えて、この浦臼の地は、たびたび石狩川の氾濫によって水に浸かり、とくに、比佐衛の土地は、何度も洪水に見舞われていますし[31]、明治37年の7月の台風による石狩川の大洪水では、記録[32]によれば、このとき農場のほぼ全て水に漬かっています(左図)。
年譜にあるように、比佐衛は、明治38年夏に渡道して、体調を崩した母雪〔見〕を東京に引き取るとともに、この開拓地を処分しているのですが、この洪水が、比佐衛や後継者だった松吾の、いわば「背中を押した」ことは、おそらく間違いないように思います。
松吾の東藻琴への入植
松吾は、そのころ日露戦争での負傷のため東京・戸山の陸軍病院に入院中でしたが、その後、いずれも浦臼で北隣に住んでいた谷海浪[33]や「小笠原一族」の移住先である天塩の“ピウカ”(現・美深)に一時寄留してから[34]、明治40年に北見の東藻琴西倉に入植したようです[35]。このとき、土地の払下げのルールは、前掲の表の上から3番目、明治30年制定の「国有未開地処分法(旧法)」〔以下「旧処分法」〕に変わっていました。
この旧処分法でも、土地を入手するには、まず国から貸し下げてもらい、一定の期間内に開拓しなけばならないところまでは規則の時代と変わりませんが、開拓に成功すると無償付与、つまり「貰える」ことに違いがあります。しかし、武市らが浦臼に入植した明治26年ころとの大きな違いは、むしろ、今でいう「ソフト面」にあります。明治当初の国の態勢は、やや乱暴にまとめると「土地が欲しければ、自分で見つけ、測量した図面を添えて申請せよ。そうすれば、審査してやる。」というものです。国が探してくれるわけでも、アドバイスがあるわけでもありません。当初は、国にとっても、ほとんど勝手のわからない土地ですので、それしかやりようがなかったことも確かです。しかし、自分で探せと言われても、ほぼ全土が、鉄道は勿論ですがまともな道路もない、川は倒木だらけなので舟も使えないという時代ですので、そもそも物理的に難しいわけで、それが最初の大きな関門だったわけです。
そこで、明治19年に設置された道廰は、道内各地の地形・地質・植生さらには水利、交通などを調査して入植地になりそうな地域を選び出し、その結果を明治24年から30年にかけて、「北海道殖民地撰定報文」[36]を始め合計3冊の本にまとめました。これで、入植地の「見当を付ける」のが格段に楽になったはずですが[37]、それだけに、各人が「ばらばら」に自分の欲しい土地を決めて貸下げを申請し、国がこれを端から許可してゆくと、国有地が「虫食い状態」になり、将来「使い途のない国有地」だらけになるうえ、移住者が分散していると、将来、道路や学校など、その人たちを支えるインフラを適正かつ効果的に配置することが難しくなってしまいます。
そのため、道廰は、「撰定」した「殖民地」の候補地を順次測量して、地形などに応じて基線と呼ばれる縦横の基準線を決め[38]、それを基準に、一辺300間(約550m)間隔の升目で道路用地を設けました[39]。そのうえで、将来必要になると思われる防風林や、学校、駅逓所[40]、官庁の出先機関などのための公共用地や墓地などの場所を先に取り置いて、残りの升目の内側をそれぞれ6等分して[41]小さな長方形の土地に分け[42]、この小さな長方形単位で、それを1区画とか2区画、6区画あるいは54(6×9)区画という形で貸下げをすることにしたのです。
東藻琴については、その地図が明治34年に発行されている[45]ので、それらの「区画開放」と呼ばれる手続きは、遅くともその年に完了したと考えられます[46]。しかし、松吾が入植したと思われるのは、この明治34年の地図の範囲から少し西に外れた、区画開放の範囲を広げるときに発行される明治43年の「増画図」という地図[47]に登場する場所です。つまり、入植したときには、その土地はまだ「区画開放」されていなかったようなのです。
その経過は想像するしかないのですが、先の「原則」には「前項区画外ノ土地ト雖〔原文ヘンのみ〕モ特ニ区域ヲ指定シテ貸付スルコトアルベシ」という例外がありますので[48]、正式な「区画開放」が間近で、道廰による測量も終わっていたため[49]、その適用を受けられた可能性もあります。
-完-
[3]
といっても、とくに明治から昭和前半までは、北海道には全国各地から多くの人々が移住していたし、ある地域とか仏教のある宗派の人々が団体を組んで集団移住した例も多々あり、とりわけて高知に限られたことではない。
[7]
明治政府初期の北海道拓殖の主務官庁だった北海道開拓使が明治15年に廃止されるにあたり、長官の黒田清隆が、その官有物を部下だった元官吏に安価に払下げたとして、一般世論だけでなく政府内でも物議をかもした事件
その後、採算不良のため、官有民営の一時期を経て、明治22年に北海道炭鉱鉄道という会社に払い下げられ、比佐衛が乗ったころは、今でいう「私鉄」時代だった(後に再び国有化され、現在は函館本線の一部になっている)。
もともとは、内陸にある幌内炭鉱の石炭を手宮港を経て搬出する目的で敷設された鉄道だが、札幌の中心部を通っていることからわかるように、客車がなかったわけではない(北海道大学図書館北方資料DB〔以下「北大DB」〕「北海道庁鉄道部『北海道鉄道略記 』」(ID:0A018360000000000)〔明治31〕)72コマ目左葉によると、開業時に「最上等一輌上等車四輌四十二人乗並等車五輌五十人乗」があった。最上等車の「開拓使号」は鉄道記念物に指定されている)。さらに、「並等車」については、もともとは貨車だった「土車」(「土」を運ぶ「車」なので、屋根つまり「蓋」の無い車となる)が「当初,テント屋根と腰掛を設けて下等客車として使用された.」とされているので(近藤喜代太郎「北海道の鉄道の曙と手宮」鉄道ピクトリアル541〔1991年3月増刊〕号p.64)、比佐衛が乗った「無蓋車」は、この「元は貨車だった客車」の可能性が高い。なお、北海道への移住者とその荷物の運賃は無料だった(君塚順之助「北海道移住之心得」〔以下「心得」〕同/明治29年・刊 p.45)
もともとは、内陸にある幌内炭鉱の石炭を手宮港を経て搬出する目的で敷設された鉄道だが、札幌の中心部を通っていることからわかるように、客車がなかったわけではない(北海道大学図書館北方資料DB〔以下「北大DB」〕「北海道庁鉄道部『北海道鉄道略記 』」(ID:0A018360000000000)〔明治31〕)72コマ目左葉によると、開業時に「最上等一輌上等車四輌四十二人乗並等車五輌五十人乗」があった。最上等車の「開拓使号」は鉄道記念物に指定されている)。さらに、「並等車」については、もともとは貨車だった「土車」(「土」を運ぶ「車」なので、屋根つまり「蓋」の無い車となる)が「当初,テント屋根と腰掛を設けて下等客車として使用された.」とされているので(近藤喜代太郎「北海道の鉄道の曙と手宮」鉄道ピクトリアル541〔1991年3月増刊〕号p.64)、比佐衛が乗った「無蓋車」は、この「元は貨車だった客車」の可能性が高い。なお、北海道への移住者とその荷物の運賃は無料だった(君塚順之助「北海道移住之心得」〔以下「心得」〕同/明治29年・刊 p.45)
[16]
といっても、後述の明治37年7月の台風による大洪水では、農園のほぼ全域が水に漬かっている(北海道の治水技術研究会「石狩川治水の曙光」北海道開発局/平成2年・刊)〔以下「曙光」〕「図-3.8 明治38年7月洪水氾濫実績図」)
[18]
明治のはじめ「お雇い外国人」といって、外国の進んだ学術や技術を取り入れるため、外国から大勢の学者や専門家を雇ったが、東京を中心とする中央政府ではヨーロッパ人(建築はイギリス、河川や港湾はオランダ、農業はドイツ、法律はフランスやドイツ、など)が主だったのに対し、北海道に限っては、有名なクラークをはじめ、「まだ開拓中の国」だったアメリカ人が多かった
[24]
日本の産業が重厚長大化したのは日露戦争以後で、それまでの日本の輸出産業の主力は、茶、生糸そして中国向けの昆布だった。聖園農場は「全道第一の養蚕供給地となった」(「北援隊.com」「武市安哉の軌跡」)http://hokuentai.com/pg51.html>「第十三話」引用の浦臼町史)
[29]
前掲・君塚「心得」pp.49-51。道廰でも、団結移住をはじめ団体を組んで入植してきた人々が好成績をあげている(たとえば、北大DB「團体移住之沿革」(ID: 0A016700000000000))ことから、北海道廰「北海道殖民図解」(明治36年3月)でも「團結移民は互に相親み相助け共に仕事に勵む故開墾の當時便宜なるばかりでなく開けたあとも村柄がよろしくある」(同p.18)と好評価し歓迎していた。そのためと思われるが、後述の旧処分法の時代になると、戸数の下限が20戸に引き下げられたうえ、3年計画の場合には、2年目までに、その3分の1以上が入植すればよい(道廰令「府懸知事ノ證明ヲ得タル土地出願取扱方」明治30年24号2項本文)ことになった
[31]
比佐衛傳に引用されている小笠原尚衛「崎山君の宗教生活に入る動機」との談話で、「私は君〔註:比佐衛〕より約一年おくれて渡道したが浦臼村では隣地に住うことになった…日清戦争後明治三十年頃かと思う。 石狩川の大洪水で私も崎山君も土地を残したのみで無一物となった。二人は川の沿岸の肥沃な土地を選んでいたので…」としている(Wpp.335~)
[34]
松原征男氏のご教示による。美深には、聖園農場で谷の北隣にいて明治35年に転出した(日本基督教会聖園教会「聖園教会史」(昭和57年)〔以下「教会史」〕p.342)。小笠原袈裟治とその一族が、名寄を経て明治37年に入植していた(本誌1号pp.9-10)ほか、当時、多くの聖園農場出身者がいた
[40]
道内の旅行者の便宜と安全のために各地とくに辺境に設けられた官設準民営の施設。旅館、レンタ・ホース屋、さらには郵便局の機能も果たしていた。旅行者に貸すためのウマを飼育しておく必要があるので、建物だけでなく牧場の敷地を確保しておくことも必要になる
[45]
「北見国網走郡藻琴原野区画図其二」北大DB(ID:0D25970000273000)/北海道立図書館北方資料デジタルライブラリー〔以下「道立図書館ライブラリ」〕<http://www3.library.pref.hokkaido.jp/digitallibrary/dsearch/da/detail.php?libno=11&data_id=3-2380-0>
[46]
同地に最初に人が入植したのは明治39年春(「平成26年版大空町の概要」p.3「《東藻琴地区(旧東藻琴村)の沿革》」<
http://www.town.ozora.hokkaido.jp/docs/2015011300016/files/ozora-cho_gaiyo.pdf >
[47]
「北見国網走郡藻琴原野増画図」北大DB(ID: 0D025970000276000)/道立図書館ライブラリ<http://www3.library.pref.hokkaido.jp/digitallibrary/dsearch/da/detail.php?libno=11&data_id=3-2496-0>
[49]
開放されている区画なら区画図などで「○○区画図の何線何番の土地の貸下げ」を申請すれば足りるのに対し、区画外の場合は申請書に添えるために測量図を作らなければならないのが原則だった(前掲「地図目録」p.ⅰ「2.(1)」)
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