2016年12月30日金曜日

【資料】アマゾン拓殖のための日本の会社/機関の概要〔伯剌西爾年鑑より〕

【細かい経過を…】

書き出すとキリがないので、そちらは、研究誌用にこれからまとめるものを将来お読みいただくとして、昭和初期に、現地の州政府(パラー州とアマゾナス州)の要請に応じて、アマゾン各地に日本からの移民のための移住地を建設した、3社/機関の概要を、入手したばかりの、伯剌西爾年鑑から抜粋しておくことにする。

 実は、これは、ここ2年ほど前から欲しくなっていたデータで、これらの移住地は、戦後のような棄民、つまり「何もないところに日本国民を放り出す」ようなものとは一線を画しているもので、従前のドイツの方式に倣って、あらかじめ各専門領域の専門家で構成された調査団を送って移住地選定のための調査を行い、その後、まずは会社/機関の関係者が現地に入り、本部の建物、移住者のための仮宿泊所、医療機関(病院・診療所)、農業試験場、小学校、主要道路などを建築・開鑿したうえで、移住者を受け入れていた(すくなくとも、その上で受け入れようとしていた)。

 その会社/機関が、どの程度まで、これらのインフラを(いわゆるソフト面まで含めて)整備していたのかには、当然ながら差があって*、それぞれに、断片的な2次資料はあるもののまとまりを欠いていて、まとまった統一的な情報を入手するには至っていなかった。

*一言でいえば、資金の枯渇や会社内のトラブルなどで途半ばで終わったのが後述の「アマ興」、病院医師による巡回医療や気象台まで作るなど最も徹底していたのが同じく「アマ産」といえる。

 入手した伯剌西爾年鑑のpp.83~85に、この3者、つまり(現地での着手順で)
・アマゾン興業〔通称「アマ興」〕
・南米拓殖株式会社〔同「南拓」〕
・アマゾニア産業研究所(後に「アマゾニア産業株式会社」)〔同「アマ産」〕
の昭和8年当時の状況(ただし、アマ興はすでに機能不全に陥っていた)が、以下のとおり一覧できた。(文中「|」は、引用者挿入の改行を示す)

アマゾン興業株式會社

昭和三年九月の創立にかヽり、十月ブラジル國アマゾナス州政府と土地二萬五千町歩のコンセッション契約を締結、マウエス郡に事業地を獲得した、|
土地は南緯四度廿分、西徑五七度四十分に當り、アマゾナス河の支流マウエス流域にある、|
同社事業の特色は。會社自ら直營事業により大に収益を計ると共に、植民に對しては、土地は勿論其の生産物から厘毫の利益も取らぬ點にある、即ち入植者は總て株主中から選び、一口二十株(一株二十五圓二十株金五百圓拂込)の株主に對し、一耕作単位二十五町歩を無償譲渡し各自の自由耕作に委せその収益は全部各自の所得になるのであって、従って入植株主は利益配當を受ける外自己の努力次第で多大の収益を得る譚で、之は同社が組合の性質を加[え]て相互主義に立つものと云ふべきである、|
株主は満十八歳以上五十歳以下の男子単獨者でも二名以上團結して一團となる場合(内少く共一名は同社の株主名義人たるを要す)叉満十二歳以上の子女なき夫婦者に對しても、旅券下附に就ては特に外務省で便宜を與へ更に拓務省の渡航費補助の特典が與へられて居る、及滿十八歳以下と滿五十歳以上の男女子でも、家族として同伴する場合ならば、旅券及補助金に關し同様の特典がある、|
尚同社はアマゾナス州政府との特約により同社直營部及植民者の生産物に對しては向ふ十年間免税の特典がある、入植を希望せぬ株主は將來に向って其の權利を保留する事が出來る事になつてゐる、|
事業は既に百數十町歩の開墾栽培を終り、主としてグヮラナ、米、アバカシイ、マンジオカを栽培し、精米所、米籾倉庫、診療所學校、教會、集會所等の施設が備へられ、植民は既に昭和六年末に於て百十八名に達してゐるが、未だ創業期の事とて見るべきものに無い

本社 東京市丸ノ内海上ビル内
専務取締役 澤柳猛雄氏


南米拓植株式會社

昭和三年資本金壹千萬圓を以て設立された鐘紡系の會社である、その具體的に事業の進捗を見たのは昭和四年三月以降であって、ブラジル國パラー州アカラ郡にアカラ植民地、モンテ・アングレ植民地、カスタニヤール米作試驗所を設け、總面積一、〇三〇、〇〇〇町歩の地に拓殖事業を行はうと云ふ目的である、|
直接開拓の衝に當た同社支店はベレム市にあり、支店事務所兼倉庫、移民宿泊所(ベツド三百備付)及附属桟橋は昭和四年八月末に完成を見た、|
アカラ植民地は同年九月から建設に着手されその上陸地點たるトメアスーには棧橋、事務所、社員合宿所、物品供給所、病院、修繕舎、製材所、移民宿泊所、倉庫等の設備があり、道路約百基米の開鑿も竣工し既に自動車等の運轉も開始されて居るし各河川を利用する交通と相俟つて至極便利である、ベレンの本據まで八十哩気候は日中華氏九〇度が超ゆる事稀で至って凌ぎ易い、既に開拓された面積約二千五百町歩、入植者昭和六年度末で一〇一三名(經營植民地全部を合し)に達して居る、|
トメアスー根據地には病床五十を有する病院を建設し日本人醫師二名薬剤士一名其他看護婦數名を常備し植民地内にニケの診療所を設け衛生上萬全を期して居る、叉現在第一第二小學校を開き邦人及ブラジル人数師をして教育に從事せしめ、其他公會堂、日用品販賣所、製材所、鐵工所、農業倉庫、郵便局、無線電信所等の文化設備も完成を見た、|
同植民地主要生産物はカカオ、ピメンタ・ド・レイノ(胡椒)、棉花、米であつて成績見るべきものがある、|
同社は是迄分益制度によって經營を進めて居たが今年(昭和七年度)からはコロノ制度を施行すると云ふ、即ち植民者を希望に従って二分し、一に獨立植民とも云ふべく道路付森林地二十五町歩を入植當初より買受け、會社の指導と保護の下に獨立して農業を營む者で、他は所謂コロノとして會社直營の農場に入植しカカオの請負耕作を爲す植民である、地價は一町歩につき四〇[金千]乃至六〇[金千]*、自作農奨勵のため低廉ならしめて居る、|
将來の計畫としては、森林生産物中良材フレージョ、パウ・サント、パウ・ローシヨ、パウ・アマレーロ等の輸出、樹脂、カスタニア(パラー栗)、パウ・ローザ(香料)、其他植物性脂油の精製事業、アマゾン漁業、鑛業特に石油等に向って鋭意開拓の歩を進める筈であると云ふ

本社 東京府下隅田町隅田一六一二番地 鐘淵紡績株式會社内
社長 福原八郎氏
支店 Bele'm, Para',Brasil


*[金千]=ミルレース
 http://www.discovernikkei.org/ja/journal/2009/11/5/nihon-no-kyouiku/

アマゾニア産業研究所

昭和五年豫て調査研究の結果開拓の準備を進めつゝあった上塚司氏(現大藏參與官)を主領とするアマゾン調査團一行十四名(在伯者を加[え]て實は二十二名)は、同年十月十八日アマゾナス州首都マナオスに於て、ヴィラ・バチスタの現在同所所有地の賣買假契約締結を爲し、越[え]て二十一日現地に於てアゾニア産業研究所の立柱式並に斧下式を兼ねた入植祭を行ひ、茲に同所の創立と開發の業が創められ、孜々營々今日に及んで居る|
同研究所開設當初の宣言には次の如き意味即ち
 将來我が大和民族が此の地に來り開拓し、栽培し、新社會を作り、
 新文明を樹立する上に寄與せんとして建設されたものであつて、更
 に世界文化の發達、人類福祉の増進に貢献せんことを期し|
 云々
とあり、此の大抱負を経綸せん爲めに大略左の事業を行ふ計畫であると云ふ
一、アマゾナスに於ける農産、林産
  水産、鑛産、地質、気象、保健衛生其他の調査研究
二、農産物の試作栽培
三、實業練習所の經營
四、醫院
五、氣象觀測所
六、博物館
七、各種調査報告書並に月報の發行
更に兼營事業として當分の間
一、農園の經營
二、製材所精米所及發電所の経營
三、林産及水産事業の經營
四、運輪業の經營
五、各種生産物の加工販賣
六、移民収容所の經營
等の諸事業を行ふ筈で、現在では既に附属實業練習所が設置され、農作物の試作栽培、氣象の観測、衛生保健の諸調査を開始して相當の成績を擧げて居る、|
所有土地の廣袤壹百万エクターレス、之が圓滑にして統制ある經營を行ふ爲めには人材を要すと云ふので、既に同研究所開設以前より國士館高等拓植學校(校長上塚司氏)なる教育機關を設け有為の青年を薫陶して之を植民地に送り出す事としてゐる、昨六年四月第一回卒業生を、更に第二回卒業生を今七年四月渡伯入植せしめた
 (同校は七年四月財團法人として獨立、東京高等拓植學校*と改稱)
最近更に精米、製粉、製材、發電等の諸設備が完成し運輸交通の方面にも着々設備が備へられたと云ふ

名稱 アマゾニア産業研究所
     INSTITUTO AMAZONIA
所在地 Villa Batista, W. Parintins, E. de Amazonas
東京本部 東京市麹町區内幸町一 大阪ビル内
所長 上塚司氏


所有地地域及び面積
東 Rio Manuru
西 Rio Maues        }四〇万町歩
北 Parama de Ramos
Tabocal 地方       二〇万町歩
Carvalho 地方       一〇万町歩
東 Rio Maues
                     }三〇万町歩
西 Parama do Uraria


*実際には、川崎を校地としたので、「日本高等拓植學校」(通称「高拓」)と称した。
 この高拓の卒業生「Koutakusei」の活躍については、現地語になっているほどで
 残る情報量も多いが、とりあえず
 http://www.amazonkoutakukai.com/
 は、参照不可欠。

めずらしい、アマゾン拓殖三巨頭の写真



前列左から、「アマ興」専務取締役澤柳猛雄、「南拓」社長福原八郎、「アマ産」所長上塚司
上塚芳郎/中野順夫「上塚司のアマゾン開拓事業」上塚芳郎/2013年・刊 p.094 より転載

【資料】1933年伯剌西爾年鑑

【ブラジル移民が…】

公式に開始されたのが、1908(明治41)年。いわゆる「笠戸丸移民」からで、781人の移民者を乗せた同船が神戸を出港してから約2月の航海を終えて、サントス港についた6月18日を、ブラジル側では「日本人移民の日」、日本側では「海外移住の日」と呼んでいる。
http://www.ndl.go.jp/brasil/column/kasatomaru.html



 この本

 
は、それから4半世紀となるのを記念して、1933年にブラジルの伯剌西爾時報社が編集・発行したデータブック。
 
(なお、目次は、国会図書館のここ
で確認可能)
 
 
定価欄の「金へんに千」はブラジルでの「ミル」の当て字

 
 したがって「年鑑」というのはあまり正確ではなく、「日系伯剌西爾大全」とでもいうべき内容の本である。
 
 ネットオークションでは、年末やお盆どきには、「お化け」が出ることが結構多いのだが、これも、その典型。
 普段あまり使わないキーワードで検索したら、ひょっこりと、この本が破格の価格で出品されていて、若干競ったものの無事に落札できた。
 
 昭和の8年、大きく括って昭和0年代という時期は、日本の会社・機関が一斉に北部のアマゾン河の流域の開拓に着手した時期で、崎山比佐衛がアマゾナス州マウエスに一家をあげて移住したのも昭和7年。
 
 したがって、この本には、アマゾン河流域の情報はまだ少なく、どうしても、南部とりわけ「聖市」ことサンパウロとその西の内陸地方のものが中心となるのだが、それでも、ここ数年間探していた情報が次々に発見できた。
 
 とりわけ、南部の在住者にほぼ限られるが、巻末の5分の2近くを占める名簿が圧巻で、自営農や商人、職人などだけでなく、コロノ、さらには農勞と呼ばれていた純粋な雇われ人も網羅していて、かねて消息を探していた人物の情報も見つけることができた。
 
 ただ、当時の慣例らしく、サンパウロなど海岸の大都市から内陸部に向かっている鉄道の路線別に、始発の都市から近い駅の順に日本人の移住地がリストアップされているので、そもそもこちらには土地観がないうえ、今では鉄道がなくなっているためにgoogle map は使えず、この80年の間に放棄された土地も多いようなので、目的の移住地を探し出すのには(後記のように本が「崩壊」してゆくのも手伝って)、意外に手間がかかる。
 
 「銀ブラ移民」で有名なアリアンサと名の付く植民地を例にとると、
「ノロエステ線」沿線で
p.151から始まる「リンス駅」の項に
・アリアンサ第一區植民地 pp.179~183
・アリアンサ・トビ三區 pp.183~184
その後、いくつかの植民地あるいは耕地と呼ばれていた地域が続き
p.191から始まる「プロミッソン驛町」の項に
・第三アリアンサ移住地 pp.273~276
・第二アリアンサ移住地 pp.276~278
・第一アリアンサ移住地 pp.279~284
・ノーヴァ・アリアンサ移住地 p.284
という順にリストアップされている(目的の人物は、第一アリアンサの「ドン尻」のp.284でようやく見つけ出した)。
 
 【余談】
 ただし、この本、さっそく、複合機で50ページほどpdf化したところ、紙質が悪いのだろうが、あちらこちらがバラバラとフレーク状に崩れてゆく。昭和8年出版ということなので80年程度経過した本ではあるが、日本のものでは綴じがはずれることはよくあるものの、ここまで風化して「本が崩壊してゆく」ようなことはまず起こらない(前のアーティクルの「雑誌 ブラジル 昭和8年3月号」は全く同時代、しかも「たかが情報雑誌」なのだが同様である)
 
 国会図書館のデジタルライブラリの本の表紙に「電子複写禁止」とスタンプの押されているものを目にするが、この本のような「崩壊型」ばかりではないのだろうが、「なるほどこういうこともあるんだ」と納得した。
 
  

2016年12月28日水曜日

【資料】雑誌「ブラジル」の植民学校紹介記事

雑誌「ブラジル」(日伯協会・発行)の昭和8年3月号に





「特集『学校紹介』」と題する、ブラジル国内の学校と日本内地にある植民学校の紹介記事中、そのpp.30~32に、おそらく当時の海外植民學校の学校案内を基にしたと思われる、同校の紹介記事が掲載されています。




 この特集記事では、日本の植民学校として、そのほかに
・日本高等拓殖學校
  アマゾニア産業研究所附属 實業練習所
・力行會海外學校
・廣島海外學校
・日本植民學校
が紹介されています。




2016年12月23日金曜日

柳田國男の「移民論」1

[ひょんなことから…]

ciniiで見つかった、我らが?根川先生の

根川幸男「忘れられた日本人-民俗学のフィールドとしてのブラジル日系社会-」
(『現代民俗学研究』第 1 号〔2009 年 3 月〕pp.65~77)
https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=38870&item_no=1&page_id=13&block_id=83

を読んだところ、かの柳田國男が、移民に関して、かなりのヴォリュームの論考を著わしていたことがわかり、まずは、手許の定本と文庫版の全集の中から、下記の論考を読んでみました。
 考えてみると、後記のとおり、大正9年以降、朝日新聞の今でいえば論説委員を務めていたので、当時の時事問題については、当初は元農商務省や内閣の高級官僚、その後には、国会の貴族院の書記官長だったこともあって、相当の関心があったと思われるので、別に意外なことともいえません。
 我が国の朝鮮併合とか満州への進出に関わるばかりでなく、今現在の欧米での移民や難民の流入にともなう摩擦などにも通底する問題が、すでに、当時から世界中で生じていたことがわかります。やはり「古典に学ぶ」ことは大事です。

移民政策と生活安定[抜粋]
   四 何うすれば好いか
 移民不振の根本の原因に、教育の不備があったことは確かであるが、しかもその不備は前にいったやうな単純のものゝみではない。今一つ背後に更に困難なる經濟教育の改良がある。これを完成するためには愈ゝ國民の總努力の必要があるのである。
 日本の移民は至って短い歴史しかもってゐないが、これによって養はれた我々の概念では、移民の成功は所謂錦を着て故郷に還るにあった。仮令本人は早く還ることが出來ずとも、どし/\と郷里へ金を送って、親族を喜ばせたり土地を買込んだりするのを、目的として人は出て往った。今年のやうに對外爲替の相揚が惡いと、殊に移民の本國送金が增して来る。貿易尻の勘定にはその方が都合がよいので、世間でも好感を以て之を迎へる。それから叉色々の品物を本國から取寄せる。太平洋岸の米國では、鯛の刺身まで日本から買って食って居る。是が叉ひどく出先の國の者に気になることらしい。支那人は柔和で辛抱強く、或點は移民として我々よりも勝って居るが、是をやる爲に何れの國でも嫌はれた。本國側から見れば、是れ愛郷心の登露であり、昔を忘れぬ人情の敦厚を意味するのであるが、之を迎へた國としては、いっ迄も他人を家に置いた感じをするから、親みが少く誤解か多く、所謂市民権などは出來るだけ制限して與へまいとする。相手が米人の如き気儘な者で無くとも、問題と妨碍とはどうしても起り易いのである。 其上に斯ういふ出稼式の移往労働には、どうしても向かぬ地方が次第に多くなって來る。國にはそれ/゛\生活の標準があって、勞働の報酬率の如きもそれに基いて自然にきまる。外國から來て働いて金を残さうとするには、それよりも低い暮しを爲し得るに限る。早い話が朝鮮人は内地に來るて貯蓄を爲し得るが、内地から朝鮮へ行っても單なる勞働では金を残すことが出來ない。従って今の日本人がそんな國を捜すとなれば、カリフォルニヤヘでも行くの他はない。彼地在來の労働者に取ってば、安い暮しをして略ゝ同じ働きの出來る出稼人は、何よりも畏ろしい競争者である故に、どんな無理をしても之を排斥するので、所謂白人濠洲主義の移民法なども公々然と主旨を言明して居る。あゝいふ國でも企業者資本家の側では、却って有色人の出稼ぎを歓迎して居るが、政治の上に勞働者の力が行はれて居るから、今のまゝでは排斥を免れることは難い。
 さうすると、第二の選擇は二つしか無い。自分等よりも生活の低い國に往って、何か別方法で金を儲ける工夫をするか、さうでなければ、従來の出稼式を改めて、土着してしまふ気になるかの他はない。支那人も追々に生活を改良して、今では決して最下等の暮しでない。それに南洋の各地も次第に人口が多くなって、支那人よりも今一段と安い労働者の居る處が幾らもある。さういふ地方に出稼しては、金をためて還ることも出來ぬわけだが、支那人は極端に辛抱強く、無理な倹約をして小金が出來ると、それに由って商賣に移って、永い間には産を爲すのである。ところがそれだけの根氣は竝の日本人に無いから、或は危險を侵し或は無理をして、荒い利得を早くつかまうとする。そこで滿洲や朝鮮などで、地みちな移住者は少しも増加せず誰も彼も官憲や大會社を利用して、割のよい仕事を探すか、さうでなければ此様な人を相手に、共喰ひをするやうな連中ばかりが横行をして居る有様であり、北海道や樺太では、いつ迄も土地の開發が思ふやうに進まぬと云ふ結果を見るのである。自國の領土内ならまだ何とかなるが、外國に出かけてそんな濡手で粟と云ふ成功が出來る筈がない。また假に出來るにしても、其様なことに向く者は日本に幾らも居らず、眞面目な移民にはその眞似は出來ない。そこで米國がたった一つの行先で、その昨年の排日が、我々の爲には大打撃のやうに感ぜられ、近隣の國土はこれ程廣いにも拘はらず、移民は八方塞がりの行詰りの如く感ぜられるのである。
 前にも申す如く、〔増〕加した人口は、出來ることなら國内で職を與へ國内で養ひたい。それがどうしても自由競争の壓迫を忍びかねて、外へ出た方がよいと考へるに至ったのである。もう其上に彼等に餘分の任務を負はせるのは無理である。永い間には追々出先の生活に入って、其國の人になることを覺悟させねばならぬ。それを腰掛にして金を作り、再び郷里に持還らうといふ目的をもって行くと、結局はごく少數の成功の爲に多数が危地を踏んで難澁をすることを、勤めた結果を生ずるのである。
 日本人は南方の人種で、夏の濕気の多い熱さに馴れ、歐洲人とちがって足を沾すことを畏れず、熱帯作物の生産には天然の適性を備へてゐる。近來惡くなったなどといふ者はあるが、その農夫には澤山の優越せる性質がある。一方に世界的なる穀物の不足は來らんとし、土地の未だ利用せられざる大面積は、今なほ經營者を待ってゐる姿である。かうしてなほこの間に有無相通の行はれないのは、他にも若干の原因があるか知らぬが、一つには十年、十五年の短期日に、成功して還って來ようといふ注文があるからである。是は實のところ眞の移民では無い。生活は至って樂でも、物價は日本のやうに高い國は、この近所にはない。物の安いのは好いことだが、其代りには多くは収入も少い。土着をして繁榮することは出來ても、財産を金に代へて持って還らうとすれば僅になってしまふ。斯ういふ理窟を考へて最初から其積りで、出て行かうといふ者もないのではあるまいが、如何にせん世間が移住を以て、桃太郎の遠征の如く考へ、非常に大きな成績を期待し黄金發見時代の如き痛快なる金儲けがないなら出ても馬鹿々々しいやうにに青年を教育して居るので、早今日ではよほど内外に弊害を生じ、此上は随分苦しい實驗をして見ないと、局面が展開せぬ有様に迄迫って居る。自由競争は強い小賢しい者には結構だが、分の惡い立場に居る者には、眞に気の毒である。限ある國の富を〔増〕加する一方の國民で分配しようとすれば、同胞の國にもにも爭ひがあり、且つ其爭いが年々に悪化する。國家として力を施さずには居られぬ所以である。
 現在の日本で最も豊かなる産物は、人の智慧と努力である。之を利用すべき機會は政治家の不注意に由って諸方面に塞がれて居る。物價の水準を高くして、輸出用の生産を困難にして居ることは其一つである。米國から小楊枝を、独逸から下駄の臺を輸入して、尚引合ふやうな物價では、手剰って心之を利用する途はあるまい。之を國外で働かせて見ようにも、この出稼根性では金を溜に行く處がない。従って僅かのこすい男が山勘の企業ばかりに没頭して、結局は日本人全體の聾價を、豫め傷つけて居るのだから話にならぬ。其弊害の根本に心付いて、早く改良の方法を考へる義務のある者が、それを捨て置くばかりか、寧ろ正しくない連中を世話して居る。物價の方はどうして引下げるかと言へば、需要を減少して下げて行くといふ。其減少すべき需要とは何であるか。奢侈品課税などで抑制し得るものはほんの小部分で、その他は主として日用品ではないか、即ち我々の小兒が餓ゑ、女房が寒がることを意味するのではないか。如何にも無情なる物價對策と評せねばならぬ。心ある者は、斯の如き無責任を宥恕してはならぬ。一日も早く各自の研究し得たる所を以て、我々の代表者を訓育し指導するやうに心掛け、標語ばかりの移民政策や、内容の乏しい生活安定策を以て一時を糊塗しようとする者を、警戒せねばならぬと思ふ。


(「定本 柳田國男」29巻pp.72~82。初出:大正14年6月「成人教育」*

*柳田は、1919年(大正8年)貴族院書記官長を辞任し翌1920年(大正9年) 東京朝日新聞社客員(現代でいえば論説委員)となったが、1921年(大正10年)から、おそらく国際連盟事務次長であった新渡戸稲造の推挙で ジュネーヴの国際連盟委任統治委員を1923年(大正12年)まで務めた。
 したがって、(もともと、南方熊楠による神社合祀への反対運動へのサポートなど、官僚としては「突き抜けている」側面のあった(やや乱暴に括れば「マイルドな『国士』」ともいえる)
柳田ではあるが)この執筆の当時、朝日新聞社客員かつ慶應義塾大学講師(民間伝承論)という純粋に民間人の立場にあった。

2016年12月14日水曜日

島崎藤村「南米移民見聞録」

国会図書館の…

デジタルコレクションで

標題の本
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1023252

を見つけました。

これは…

昭和11(1936)年6月、ブェノスアイレスで開催された世界ペンクラブの第14回総会に日本ベンクラブ代表として出席する藤村が、外務省から依頼された、ブラジルでの「在留邦人社会の実情視察、殊に同胞の情操の涵養、思想の啓発等に就いての研究」の報告書にあたるものです。

 昭和11(1936)年7月16日大阪商船の「りおでじゃねいろ丸」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1451604
で神戸を出港しサントスを経てブェノスアイレスでの大会終了後、10月始めにサントスからブラジルに入り、それから9日間、ブラジル、主としてサンパウロとリオデジャネイロ周辺を視察しています*

http://www.nikkeyshimbun.jp/2016/160824-73colonia.html

■この本の性格上…

当然ながら、そのブラジル視察についての36ページ
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1023252/23
以下の部分が、この本のいわば本体なのですが、むしろ注目されるのは、10ページ、
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1023252/10
の「船中の移民の生活」以下の、文字通り、同船していたブラジルへの移民者たちの観察録の部分で、これは、船中や上陸後の移民者たちの、大作家の筆になる客観的な記録*として貴重なものだと思います。

*もちろん
 移民者による「体験記」は数多く目にするし、

 移民監督側の視点によるものとしては、
 既報の
 辻小太郎の「ブラジルの同胞を訪ねて」(日伯協会/S05・刊)
  [S03/07/25 神戸出港の「備後丸」]
 があり、
 石川達三の「蒼氓」(改造社/S10・刊) や
 その第2・3部にあたる「南海航路」「聲なき民」(新潮社/S23?)
 http://edcutokyo.blogspot.jp/2016/10/blog-post_21.html
  [S05/03/15 神戸出港の「らぷらた丸」]
 も、小説ではあるが、この範疇に入るだろう。

 しかし、第三者の目によるものとしては、

 戦前のものとしては標記の本
  [S11/07/16 神戸出港の「りおでじゃねいろ丸」]
 戦後のものとしては
 相田洋の「航跡」(日本放送出版協会/H15・刊)
  [S34/03/03 横浜出港の「あるぜんちな丸」]
 程度ではないだろうか。

2016年12月2日金曜日

[短信]wikipedia 「アルテミオ・リカルテ」

[wikipedeia の…]


「アルテミオ・リカルテ」のアーティクル
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%86%E3%83%9F%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%86


に、同将軍の写真を提供し、加えて「参考文献」を追記しました.

なお、それとは別の、おそらく大正末期の50才前後と思われるリカルテの写真



「植民 第6号」海外植民学校校友会〔日本〕/昭和37年・刊(松原征男氏・蔵)の口絵掲載のもの
編集後記によると、卒業生の土原茂巧撮影と思われる

2016年11月11日金曜日

昭和2年の植民学校々舎

■今朝入手した…



「池ノ上 今と昔」と題する小冊子*1の6ページに


「世田谷町消防組第一部 火の見櫓落成記念 昭和二年」


と題する写真が掲載されていた。



*1 目次ページ上の前書きによると、世田谷区立池之上小学校の10年ほど前の卒業生のお母様方が編集・発刊した冊子のようである



■この写真…

これまでは、不鮮明なもの
しか手許にないためわからなかったのだが、鮮明な写真で見ると、櫓の後ろに海外植民学校の校舎が写り込んでいた。





 したがって、この写真は、櫓の南西から、北東方向を撮影したものであることがわかるが、


それと共に、写っている学校々舎2階の壁が黒っぽく塗られていることが注目される。


■開校の…

大正7年当時、ページ右上の写真のように、この校舎の2階部分は、白っぽい漆喰らしきもので塗られており、それからわずか9年後の昭和2年には、すでに黒っぽく塗り替えられていたことがわかった。*2

 この学校のことを調べ始めた当初は、当初白かった校舎2階の壁が防空上の観点、つまり空襲の目標にならないために塗り替えられたのではないかと想像していたのだが、徐々に全く別の理由で黒い壁に変わったらしいことがわかってきた。



*2 このほぼ直後に建築された女子部の校舎と寄宿舎が右端に写り込んでいる、学校の全景は、本ブログの
   http://edcutokyo.blogspot.jp/2016/07/39.html
   参照
       なお、この写真は、アングルからみて、この火の見櫓上から撮影したものと思われる。




2016年10月21日金曜日

石川達三「蒼氓」


作家の石川達三は…

1930(昭和5年)、移民の監督者として「らぷらた丸」でブラジルに渡り、このときの経験を元に、第1回芥川賞受賞作「蒼氓」*を著わしている。
http://mainichi.jp/articles/20160208/ddl/k28/040/325000c

*電子化版(第1部)は
http://bungeikan.jp/domestic/detail/53/
(日本ペンクラブ電子文藝館 所収)

http://www.ndl.go.jp/brasil/data/R/033/033-001r.html
にある写真からみても、乗船したのが「らぷらた丸」であることは間違いないようなので、昭和5年前後の同船の記録をみると

  神戸   ‐サントス
1 S04/09/28-S04/11/13
  http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1450262
  移民監督 久万俊泰

2 S05/03/15-S05/04/30
  http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1450358 
  移民監督 米増 覺

3 S05/08/23-S05/10/09
  http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1450446
  移民監督 片山良平

4 S06/01/31-S06/03/19
  http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1450489
  移民監督 中島重文

なので、4月29日撮影とされる先の写真は、2番目のそれで、サントス入港直前に撮影されたことになる。

 ただし、このときの監督は上記のとおり、米増 覺なので、石川は助監督というか監督補という立場(正式には「移民監督助手」)だったのだろう。

余談ながら…
 この時期は、いわば移民監督の「当たり年」ともいえ、船の事務長に監督を委嘱していることも多い一方で、移民業界の著名人も監督を務めている例がある。

神戸出港-サントス着

S04/10/27-S04/12/11
さんとす丸
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1450275
移民監督 小林美登利@聖州義塾

S05/03/29-S05/05/26
神奈川丸
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1450366
移民監督 今井修一@植民学校

S05/05/14-6/29
さんとす丸
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1450393
移民監督 澤柳猛雄@アマゾン興業

なお…

「移民監督なる仕事」の内容の具体例については

辻小太郎「ブラジルの同胞を訪ねて」日伯協会/S05・刊
pp.4~31

が詳しい。

2016年10月20日木曜日

研究誌「海外植民学校と比佐衛」第6号 発刊


 【表紙】





















【目次】

比佐衛を語る(その1) 「崎山比佐衛の生涯」       崎山貞子      … 1

序によせて ― 海外植民学校の学校誌について ―  大熊智之      … 3

特集 ― 東京(上) 渋谷・世田谷―
 東北学院と崎山比佐衛                   大熊智之    … 5
 比佐衛の青山学院入学から学校設立準備まで     松原征男      … 10
 [余禄]「おばぁさんの知恵袋」解題              木村  孝        … 19
 植民義塾と片野先生                         斎藤秀雄        … 25

連載 世田谷・下北沢と海外植民学校(その5)            木村  孝      … 29

エピソード5 比佐衛の気概
                ―第4の恩師 渡辺辰五郎校長           松原正憲      … 35

短信(2) 生誕の地にて「崎山比佐衛」企画展      﨑山ひろみ   … 37

短信(3) 比佐衛の甥 ご逝去                       編集部      … 38

おわりに (編集後記)                         きむらたかし  … 39

執筆者・協力者紹介 / 奥付               編集部            … 40


【問合せ先】

2016年10月6日木曜日

「崎山比佐衛伝」のコピー本〔【追記】とオリジナル本〕

研究誌

http://edcutokyo.blogspot.jp/2016/07/blog-post_25.html
の原稿を書くときに、一番困るのが「崎山比衛伝 アマゾン日本植民の父」を引用するときの、ページの特定。


このブログの…

http://edcutokyo.blogspot.jp/2016/07/blog-post_78.html
にも書いたとおり、手許に原本がなく、基本的に
ブラジル移民文庫
http://www.brasiliminbunko.com.br/IminBunko.CAPA.htm
に収録されている同書のPDFファイル
http://www.brasiliminbunko.com.br/Obras/157.pdf
のページ番号を「Wp.」で、原本中でページ番号のわかっているものは「Bp.」で示していて、それでも、なかなか入手困難な本なので、「読む側」にとっては実用上の不便がないのがわかっているものの、実は「書く側」にとっては、手持ちのコピーやPDFファイルを端からチェックするほかなく、不便この上ない状態だった。


いずれは…
原本の入手をと思っていたものの、なかなかマーケットに現れなかったところ、とある古書店のリストの中に見つけて、早速発注。


 しかし、今日届いたのを見た瞬間に感じたのは「あれっ、こんなに大きな本だったっけ?」。


さすがに、原本は、何度かは目にし、手に取って見ているための違和感だった。
 口絵の写真もおかしな色合いで…



よくよくみると
原本のコピーを製本したものであることがわかる。

とはいえ…

素人がコピーして綴じたものではなくて、きれいに中折りし、きちんと断裁したうえ、ハードカバーでしっかり製本し


背表紙の題字も


ちゃんとした活字で入れられているので、これは明らかにプロの仕事。


どうやら…

この本は、発行時に入手できなかった、海外植民學校の卒業生とか、あるいは、その未亡人などのご家族が、同窓生などから原本を借り受けて、専門業者に依頼して作ったコピー本なのではないかと思われる(私を含めて、単に資料としてコピーするなら、ここまでお金と手間をかけて製本するとは考えにくい)。


 その方が、どのような「想い」でこのコピー本を作ったのか…。

 今は、下手な原本より貴重なものを入手できたともいえる一方で、その「想い」までしょい込んでしまったのではないか、という複雑な心境である。


奥付の…

「発行所」欄には
東京都新宿区戸山町四丁目
都営戸山アパート三七号九一七
海外植民學校校友会出版部
とある。






 これは、今知っている限りでは、発行人の崎山盛繁氏の当時の住所とも、また、長期間にわたって日伯双方の校友会の事実上の連絡役を務めていた土原茂巧氏の住所とも違っている。
 はたして、誰の住所だったのだろう。



【参考資料】


「ブラジル発行版」奥付
「ブラジル移民文庫」 http://www.brasiliminbunko.com.br/Obras/157.pdf より

















 【追記】2020/01/29


■ネットオークションでは…

盛夏のお盆どきと年末年始には、よく「お化け」が出る。

 とくに、この年末年始、というよりむしろ、昨年晩秋から年明けから時間も経ているつい最近まで、ここ10年以上捜していた「お化け」クラスの書籍の、しかも、破格に安価な出品が目白押しで、公私ともに結構忙しくなってきているにも関わらず「目が離せない」。

 そのような、お化けシリーズの、いわば「ラス前」の1冊が「崎山比佐衛傳」のオリジナル本だった。しかも、出品価格700円(かつ「送料無料」)、オークションも「無風」。…やはり「お化け」だった。

■届いた本をみると…



表紙にカビ跡とみられるヤレはあるものの、全くといってよいほど開いた痕跡がない。

 ヤフオクの「匿名発送」ではあるが、これだけはわかる、発信された郵便局は高知市中心部の「高知宝永町郵便局」。

 崎山も、著者の吉村も、高知県本山町の出身なので、どうも、発刊時に同県内の縁者に寄贈された本が、今まで「埋蔵」されていたもののようである。

■しかし…

少々驚いたのは、奥付で、こちらは

 


発行所が「海外植民学出版部」とあって、先のコピー本のそれにある「校友会」の3文字がない。

■これまで判明した3パターンのうち…

Isohata (五十幡)氏発行名義のものは、ブラジルを中心とする卒業生で組織されていた伯国校友会の要請に応じて崎山盛繁氏が日本で印刷してブラジルに送ったものらしいのだが、日本で発行されたものが、なぜ2パターンあるのかの理由については手掛かりがない。

 そのため、これは全くの想像なのだが、今回入手のオリジナル本が初刷で、著者の吉村あるいは他の関係者から「すでに現存しなった『植民学校』名義」であることに疑問が提起され、増刷の折に校友会名義に変更されたのではなかろうか。

【追々記】

戦後の一時期、海外植民学校の「再興」をめぐって、校友会内でいろいろな意見対立があったことを思い出した。

結果論としてみると、およそ不可能な目的のための諍いでしかなかったのだが、この奥付の表記もその影響なのかもしれない。

 

2016年9月18日日曜日

大正15年ころの植民学校周辺の地図

■学校とは直接関係のない
 
関東大震災後の東京圏の市街地の膨張に対応するために決定された、いわゆる都市計画道路の一つで、学校のやや東を通る「補助線道路第二十號」(現・補助26号)の路線決定の経緯を調べている
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2016/09/26-02d7.html
うち、海外植民学校が描かれている地図を発掘しました。























 この図は、それにともなって、昭和9年当時計画されていた、画面中央の学校と植民義塾の間の間を横方向に走る、「世田谷町道路網第四號路線」の計画にも少々変更が生じるために作成された地図のようです。

 この変更自体は、昭和9年なのですが、このときすでに開通していた現・京王井の頭線が地図の中に描かれていないことから、当初の路線決定時、つまり大正15年ころの当地の状態を示す地図と考えられます。
 
■しかし…
それにしても、この地図は、当時この世田谷町道4号を通すとしても、建物とか塀などの工作物を壊したり移動させたりしなければならなくなる利害関係人が、学校とその東の牧場(積田牧場)しかいなかったことを示しているといえます。

 のどかな時代だったわけですね、まだ。

【追記】


日本地形社 大正11年10月測図/昭和22年7月補修 昭和22年9月印刷・発行

帝都地形図【抜粋】



2016年9月3日土曜日

越境と連動の日系移民教育史 - 複数文化体験の視座 -

〔研究誌5号にご投稿いただいた…〕

根川幸男氏編著
http://www.minervashobo.co.jp/book/b213837.html
の新刊です。

序 章 近現代日本人の海外体験と日系移植民史の時期区分──「連動史」を描くために(根川幸男)
第II部 第13章 越境するスポーツと移民子弟教育──太平洋戦争直前期ブラジルにおける日系少年野球を事例に(根川幸男)
は、根川氏の執筆。

なお、根川氏のプロフィールは
http://www.minervashobo.co.jp/author/a101904.html
http://research.nichibun.ac.jp/ja/researcher/staff/s073/index.html

あわせて
http://www.discovernikkei.org/ja/journal/author/negawa-sachio/
をご参照ください。








2016年9月1日木曜日

アマゾナス州マウエス市々歌

汎アマゾニア日伯協会の堤様にご教示いただいた

マウエス市の公式市歌
Hino de Maués - Óh Minha Maués
https://www.youtube.com/watch?v=TaMPcNLe234











歌詞は、こちら
https://pt.wikisource.org/wiki/Hino_do_munic%C3%ADpio_de_Mau%C3%A9s

海外植民学校出身
崎山比佐衛移住地「勝手先遣隊」
アマゾン興業移民の「救世主」
アマゾニア日本移民援護協会元事務局長
汎アマゾニア日伯協会元会長

などなど、挙げだすと切りがなさそうな
山之内登 氏

そのご子息

アレッシャンドレ 山之内
Alexandre Batista Yamanouth
氏の作詞作曲です。

「アマゾン 日本人による60年の移住史」
アマゾニア日伯協会/1994・刊 より




















2016年8月31日水曜日

海外植民学校の事実上の校歌「ラプラタの夕空」

この歌の成立過程については…
「母家」のWebページ
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/SgLaPlata.htm
で解説し、Midiファイルをページに追加しました。

その後…
「どうせなら」というわけで、当然ながら静止画ベースですが、ヴィデオ・クリップを制作して、YouTubeにアップロードしてあります
https://youtu.be/25n-CODKRkY
ので、ご興味のある方はどうぞ。

しかし…
どうにも経過がわからないのが、この曲の作曲家が「納所辨次郎」(1865-1936*1)とされていることです。
 納所は、すでに当時、作曲家としてかなり著名な存在で、植民学校が出来た後ならばともかく、学校もできていないうちから*2、本当にできるかどうかもわからない学校のために、この曲を作った。、というのも少々不合理に思えます。

【追記】2017/04/04
大日本音楽協会 編「音楽年鑑 昭和16年度」共益商社書店出版/S16・刊 p.79



現時点で…
考えられるのは2つ(あるいは3つ)の可能性で、
1 すでに納所が作曲したなんらかのメロディーを、いわば「パクった」。
2 植民学校設立にあたっての後援者の一人に、森村財閥の総帥である森村市左衛門がおり*3、その一方、納所は大正元(1912)年以降森村学園で教鞭をとっていたので、同校の創立者である森村を通じて作曲を依頼した。
(3 1のように当初は「パクった」が、後に2の縁を通じて、納所の了承を得た。)

とはいえ…
上記の1にしても3にしても、この可能性を裏付けるためには、この「ラプラタ…」に先立って、これと同じあるいはこれに近い曲を納所が作曲していたことが前提になります。
 これまで、いろいろと探してはいるのですが(画像と違って「一瞬でわかる」というものでもないため)いまだにそれらしい曲は、まだみつかっていません。

【追記】2016/09/04
どうも、これが元歌のようにも思えます。時期的にも矛盾はありませんし。

豊島〔ほうとう〕の戦【明治海軍軍歌】  
https://www.youtube.com/watch?v=-h9wybv9cgM
の始めから2分30秒以降

(ここ
https://youtu.be/7mAvnwh6Yrw
にもありますが、上のリンク先の方が音がクリアです)


解説、歌詞と譜面が、ここ
http://blogs.yahoo.co.jp/nippon0banzai/28957706.html
にありました。

当方の Web にある譜面
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/image/LaPlataScore.jpg
と、
このブログ掲載の譜面
http://blogs.yahoo.co.jp/nippon0banzai/GALLERY/show_image_v2.html?id=http%3A%2F%2Fblogs.c.yimg.jp%2Fres%2Fblog-0f-08%2Fnippon0banzai%2Ffolder%2F985532%2F06%2F28957706%2Fimg_0%3F1327233658&i=1
を見比べても、調は違いますが、出だしのメロディラインは同じように思えます。

実は

YouTubeへのアップロードには、その種の情報提供を得たいとの意図もあったのですが、
上記のとおり解決しました。



*1 国会図書館典拠データ検索・提供サービス<http://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/00206601>
*2 作詞者の大島は、学校設立に先立つ崎山比佐衛の遊説に同行して、大正7年3月9日、大阪の天王寺公会堂で、この歌を独唱している。 http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10027206&TYPE=HTML_FILE&POS=1
  また、吉村繁義「「崎山比佐衛傳 アマゾン日本移民の父」
 http://www.brasiliminbunko.com.br/Obras/157.pdf
の164ページ目によれば、「良い声の持主」だった大島は、大阪に先立つ、崎山に同行した大正5年9月から同6年2月までの北海道遊説の折も
「主幹の講演のあと、その壇上に立って独唱した。これがヒットして、一行のゆく処『ラ・プラタの夕空』で風靡した」という。
*3 海外植民学校の機関誌の雑誌「植民」(当時)大正9年3月号【大熊文献】の7ページに、「海外植民學校の恩人」と題して、澁澤榮一、大隈重信らのそれとならんで「故森村市左衛門男(爵)」の写真が、最上段に掲載されている。


【追記】2017/05/13

納所の「豊島の戦」。

この曲には、

拓務省拓務局「ブラジル移住者便り」同/1934・刊
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1272849
掲載の

原 篤 作歌「平野青年同志團歌」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1272849/31
同「夜間中学 平野義塾、塾綱?歌」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1272849/32

のどちらの歌詞も「うまく乗る」。

 これ以外にも、海外雄飛青年の愛唱歌とされる歌詞で、この曲に載るものがあり、
いわば気勢の上がる旋律として、重用されていたように思われる。


2016年8月17日水曜日

書籍「アマゾン 日本人移住八十周年」

■オークションに…

ブラジルの「ニッケイ新聞社」が平成22年8月に発行した、この本


が出ていましたので、落札しました。
 
■ブラジルの…
 日系人を採り上げた本は、サンパウロをはじめとするブラジル南部を中心とするものがあらかたで、たとえば、数年前に入手した
 
ブラジル移民資料館ほか・編「目で見るブラジル日本移民の百年」風響社/2008年・刊
 
でも、北部のアマゾン川流域については、ほとんど「ついで」に触れている程度。
 
 今回の本は、アマゾン移住に特化した書籍でしたので、それなりに期待が持てました。
 
■確かに…
 中ほどの「移住地を訪ねて 連載編」では、9箇所の移住地を訪ね、主として「初代」の日本人移住者に丹念に取材しているのは、評価できるところです。
 
 
 
 
■しかし…
 アマゾナス州のマウエスについては、巻末の年表中でわずかに崎山の移住に触れている程度で「ほとんど無視」といってよい内容でした。
 
 しかし、この地は、崎山比佐衛の移住先(昭和7〔1932〕年9月)、というよりも、むしろ、それに先立つ昭和3〔1928〕年8月23日、同地に到着したアマゾン興業(アマ興)の取締役兼現地支配人の大石小作が率いる、三石久、久保田喜久郎、増田太郎、唐木道雄、羽野鶴雄、尾崎貞吉、石田喜由の7名の若者が、
  • 南米拓殖のパラー州アカラへの植民者(昭和4〔1929〕年9月。なお、その受け入れのため、トメアスーに上陸地点を定め、周囲の開墾に着手したのは4月)よりも、
また、
  • アマゾナス州パリンチンス下流のヴィラ・アマゾニアに植民地選定を兼ねて乗り込んだアマゾニア産業(アマ産)の上塚司たち(昭和5〔1930〕年6月)よりも、
先に、アマゾン川流域で、(少なくとも組織的にという意味では)初めて日本人が斧をふるった地なのですから、それなりの採り上げようもあるはずで、この扱いは、あまりに粗略だし、比佐衛同様にアマゾンの土となった大石に対する礼を失しているというほかありません。
 
■とりわけ…
アマ興の7人の若者のうち唐木、羽野、尾崎の3人は海外植民学校の卒業生。
また、同じく卒業生で昭和4〔1929〕年8月、後の崎山の移住地に、いわば「勝手先遣隊」として入った山之内登は、後にアマ興移民とアマ産との橋渡し役として重要な役割を果たしているのですから、マウエスを無視するかのようなこの本は、当方にとっては「非常に残念な本」だったのでした。


■もっとも…

考えてみると「ニッケイ新聞社」は、サンパウロ所在。
 
 
そこからみると、アマゾン河流域は、意識の中では、未だに「遥か彼方の『ほとんど異国の地』」なのかもしれませんね。
 
 90年史にはぜひ期待したいところです。
 
 

2016年7月25日月曜日

研究誌『海外植民学校と比佐衛』の目次集【6号目次追記】

 海外植民学校の創設者、崎*山比佐衛のご親族、比佐衛の弟松吾(まつご)氏の孫である松原征男氏の提唱で始まった、同校と崎山の研究誌である表題の雑誌も、創刊の2014年6月30日以来2年を経て、すでに第5号まで発刊され、


第5号表紙
   *戸籍名では、「さき」の右上の部首が「大一」ではなく「立」の「﨑」とのことです。
    ただし、
    ・比佐衛自身もある時期から、また、下記の「アマゾン日記」の著者で比佐衛の弟の信義氏も、
    意識的に正字である「埼」の字を使っていることと、
    ・一部のコンピュータでは「﨑」の字が表示できないおそれがあるため、
   当ブログでは「埼」の字で統一することにします。


 この間、比佐衛が骨を埋めたブラジルにも、3つのルートを通じて発信されるようになりました。

 この機会に、既刊分の目次をアップロードしておきますので、ご興味を持たれた方は、発行元である


宛てご照会ください。
 

既刊分目次集

第1号

・はじめに                                      松原征男  01
・資料紹介
  アマゾン日本植民の父 崎山比佐衛 高知市立自由民権記念館     02
・世田谷・下北沢における海外植民学校(前書)
  -「海外植民学校と比佐衛」創刊に向けて-         木村孝    03
・ブラジルにおける日本移民迫害の究明と移民史の捉え直し 大熊智之   07
・ブラジル訪問記 -叔父崎山比佐衛の足跡を追って-    崎山ひろみ 09
・付記   ・小笠原氏と板垣退助 ・聖園農場入植図                     10
・「一鍬主義」人の生涯(私説編)
  その1 マゾン日本植民の父崎山比佐衛            松原正憲  11
・「キ,キ,キミの顔はサルに似ちょる」                 松原征男  12
・資料紹介  関係資料受贈    高知県立歴史民俗資料館         13
・崎山久佐衛の資料収集                       崎山ひろみ  14
・崎山比佐衛関係略年譜                       崎山ひろみ  16
・おわりに                                (im)      20
・引用文献等 表紙写真説明 執筆者・協力者紹介

第2号

・はじめに -校友は石垣-                             01
・世田谷・下北沢における海外植民学校(第1章)        木村孝    02
・海外植民学校と教育(1)-初期の女子教育-         大熊智之    06
・連載 崎山信義著『アマゾン日記』-崎山校長の断面-(1)         09
・崎山比佐衛の資料を収集するためのブラジルヘの旅     崎山ひろみ 12
・校友子  吉川録郎遺稿 「武力なき平和」                   17
・随想 国策移民か自由移民か                   松原正憲  18
・「一鍬主義」人の生涯(私説編)その2               松原正憲  20
・エピソード2「ファハフアハ…」と笑った               松原征男  21
・おわりに 引用・参考文献等 筆者・協力者紹介        im       22
・写真(崎山比佐衛夫妻)  奥付                          23

第3号

・はじめに 高知県本山町での比佐衛/盛繁氏への追悼   松原征男 01
・世田谷・下北沢における海外植民学校(その2)        木村孝   02
・海外植民学校と女子教育(2)                   大熊智之 08
・連載 崎山信義著「アマゾン日記」-崎山校長の断面-(2)        09
・比佐衛の足跡 4つの活動地域 ・高知・北海道・東京・ブラジル      11
・比佐衛のふるさと本山                       崎山ひろみ 12
・史跡略図                               松原征男  14
・シリーズ1 高知県本山町吉延における比佐衛
  ・生誕の地本山町  ・顕彰の碑  ・生誕の地記念碑
  ・建設世話人会   ・少年期                  松原征男  15
  ・南北両米旅行の帰郷報告会(高知新聞)                 22 、
・崎山比佐衛の大正5年(1916年)高知行き           大熊智之  23
・高知訪問記 先祖の地を訪ねて                  松原正憲 27
・江戸時代以降の代表的高知県出身者100人(高知新聞)          28
・盛繁氏への追悼
  ・木村孝 ・大熊智之 ・崎山秀昭 ・松原正憲 ・松原征男       29
・おわりに / 引用・参考文献 筆者・協力者紹介               37
・顕彰碑  / 奥付

第4号 特集 北海道・聖園農場(上)

・はじめに                                松原征男 01
・世田谷・下北沢と海外植民学校(その3)
  学校としての順調な滑り出し                   木村孝   02
・〔余禄〕北海道開拓史の中の崎山家               木村孝   06
・崎山比佐衛一行の大正5年(1916年)北海道遊説
  札幌での人脈づくり                        大熊智之 14
・日本移民学会報告/北沢川文化遺産保存の会研究会報告 松原征男 19
・特集 -北海道・聖園農場(上)-                松原征男  21
・写真で見る比佐衛の足跡 シリーズ2-北海道浦臼ヘ-
  1)聖園農場訪問記                               22
  2)聖園農場に着くまで 小樽 峰延 石狩月形 浦臼町         25
  3)聖園農場の開拓 入植の経緯 浦臼原野の開墾 キリスト教入信
          冬期学校 学問を志し東北学院へ               29
・「一鍬主義」人の生涯(私説編)3
         -18歳の久吉 聖園農場ヘ-          松原正憲 34
・エピソード4  -クマの逆襲-                  松原征男  35
・おわりに                                     36
・引用・参考文献 筆者・協力者紹介 訂正                  37

第5号 特集 北海道・聖園農場(下)-

序にかえて -北海道廳植民軌道藻琴線-          木村孝     01
・渡伯報告 -マウエスを訪ねて-                 根川幸男   03
・世田谷・下北沢と海外植民学校(その4)            木村孝    08
・海外植民学校と女子教育(3)                  大熊智之   14
・〔余禄〕北海道拓殖の史料から                  木村孝    19
・北海道開拓の玄関口 小樽                   大井厚夫  27
・崎山松吾の網走東藻琴への入植                松原正憲  30
・シリーズ3-網走モコト原野の開拓-             松原征男
   1)崎山家の渡道と定住                            32
   2)崎山松吾の軌跡-網走モコト原野開拓と地域活動-        33
   3)崎山松吾の年譜                              39
・伯父の入植地 -東藻琴を訪ねて-             崎山ひろみ 41
・開拓者の拝み小屋                        松原正憲   43
・頑固な松吾お爺ちゃん                       松原正憲   45
・エピソード(4)熊を追つてゐたのだ              松原正憲  46
・短信(1)-比佐衛研究で早稲田大学から来訪-高知県本山町    47
・海外植民学校・崎山比佐衛の記念日           松原征男
・おわりに 主な引用・参考文献 訂正          松原征男     48
・執筆者●協力者紹介  /  奥付                      49

第6号 特集 東京(上) 渋谷・世田谷

比佐衛を語る(その1) 「崎山比佐衛の生涯」       崎山貞子      … 1
序によせて ― 海外植民学校の学校誌について ―  大熊智之      … 3
特集 ― 東京(上) 渋谷・世田谷―
 東北学院と崎山比佐衛                   大熊智之    … 5
 比佐衛の青山学院入学から学校設立準備まで     松原征男      … 10
 [余禄]「おばぁさんの知恵袋」解題              木村  孝        … 19
 植民義塾と片野先生                         斎藤秀雄        … 25
連載 世田谷・下北沢と海外植民学校(その5)            木村  孝      … 29
エピソード5 比佐衛の気概
                ―第4の恩師 渡辺辰五郎校長           松原正憲      … 35
短信(2) 生誕の地にて「崎山比佐衛」企画展      﨑山ひろみ   … 37
短信(3) 比佐衛の甥 ご逝去                       編集部      … 38
おわりに (編集後記)                         きむらたかし  … 39
執筆者・協力者紹介 / 奥付               編集部            … 40

2016年7月7日木曜日

崎山比佐衛関係書籍情報


世間的には、どれもマイナーな書籍で、古書などで入手するのはなかなか困難なのですが(私も持っていません)、幸い、基本中の基本の3冊は、ネット上で読んだりダウンロードすることができます。

■崎山の著書

●最初のアメリカ大陸視察記

「南北兩米踏破三萬哩」

国会図書館のデジタルコレクション
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/955802 初版
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/955803 改訂再版
 に加え

google books
 中の画像データで改訂再版の方を読むことができます。
 また、ダウンロードするのでしたら、こちらの方が楽です。
  https://books.google.co.jp/books?id=liEVqCcCQtEC&printsec=frontcover&dq=%E5%8D%97%E5%8C%97%E4%B8%A1%E7%B1%B3%E8%B8%8F%E7%A0%B4&hl=ja&sa=X&redir_esc=y#v=onepage&q=%E5%8D%97%E5%8C%97%E4%B8%A1%E7%B1%B3%E8%B8%8F%E7%A0%B4&f=false

●2度目のアメリカ大陸視察記

「南米の大自然 : アマゾンの流を下りて」

国会図書館のデジタルコレクション
 中の画像データで読むことができます。
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1191540






















折込みの旅程図(4分割されている画像を合成したもの)


■崎山の伝記

青山学生労働会時代から学校初期にかけての、盟友であり「副官」だった吉村繁義が、戦後執筆した崎山の伝記

「崎山比佐衛傳 アマゾン日本移民の父」

ブラジル移民文庫<http://www.brasiliminbunko.com.br/IminBunko.CAPA.htm
 でテキスト付のpdfファイルで読むことができます。
 http://www.brasiliminbunko.com.br/Obras/157.pdf
 別途入手した巻末見返しの「大正八年創立当時の植民学園の全景」

■その他

国会図書館のデジタルコレクションには、

崎山執筆の
「南米の開拓は先ず手に豆から」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1272849/62
 拓務省拓務局「ブラジル移住者便り」1934 所収

崎山についての評伝
「五、 牛乳配達から南北兩米三百哩を蹈破した 海外殖民學校長 崎山比佐衞君」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/907074/33
 大日本雄弁会「苦学力行 新人物立志伝」T11 所収

がある。


原稿「池ノ上の私立海外植民学校」


「北沢川文化遺産保存の会」
の、会報 第113号(2015年12月1日発行)のために書いた記事です。


池ノ上の私立海外植民学校                 きむらたかし




大正7年、ただ畑と林が広がるばかりだった池ノ上の高台、今の池之上小学校の南隣、青少年会館の所に、小さいがハイカラな2階建ての建物が建った。海外植民学校。設立したのは、高知から北海道に開拓民として移住し、その後仙台を経て上京後、青山学院で神学を学んだ、崎山比佐衛〔ひさえ〕という人物である。

 崎山は、青山学院在学中、牛乳の販売で生活費と学資を稼ぐ自らと同じ境遇の「苦学生」と呼ばれていた学生を会員とし、牧場で乳牛を飼い、その牛乳を殺菌・瓶詰めして、会員が配達する「青山学生労働会」を設立。「牛乳屋のおやじ」を自認していたが、大正初期の不況下での会員の就職難の打開の活路を海外移住に見いだそうと、大正3年から丸々2年間南北アメリカ大陸を視察した。

当時海外に渡る日本人の多くは「出稼ぎ」意識を脱却できず、条件のよい仕事先を渡り歩くだけの者も多かった。崎山は、その意識改革に加えて、移民先の労働現場での指導・監督者である「ボッス」の良否が移民たちのその後の境遇を大きく左右することから、「良きボッス」を養成する必要性を痛感し、帰国後、澁澤榮一、後藤新平、大隈重信といった当時の錚々たる政財界の指導者の支援を得て、いわば「『移民の中の士官』学校」を設立したのである。

しかし、この学校、開校後は苦難の道を歩むことになる。開校までの第一次大戦による好況から、開校に前後して、一転して世界的な大不況となったため予定通りの資金が集まず、それが遠因の一つとなった大正1011年の学生のストを契機に、多くの後援者を失ったうえ、今のNHKの社宅の場所にあった学校の原点ともいえる牧場も人手にわたるなど大幅な規模の縮小に迫られた。

この学校は、もともと、他の学校と違って、授業料の収入よりも、有志からの寄附金や、青山学生労働会の後身の「学生労働会」(後には「植民義塾」)による牛乳販売の収益(後には、国からの補助金が加わった)に依存する経営態勢だったことが、おそらく男女あわせて1000人近い卒業生をブラジルなど諸外国に送り出しながらも、最後の最後まで崎山も自認していた「貧乏学校」から脱却できなかった要因であった。

海外植民学校は、各界の名士が自動車を連ねて参集した華々しい開校から23年経った昭和16年ころひっそりと閉校したが、その校舎は関東[給]->配電、戦後は東京電力の研修施設として昭和30年代半ばまで残っていた。


2016年7月6日水曜日

書籍「上塚司のアマゾン開拓事業」

ネットオークションで「無風」で落札できた、上塚家の私家版のこの本。

























昨日届きました。
今、合間を見て熟読中。

奥付は、こちら
 




今でこそアマゾナス州の首府のマナウスに日本企業の大工場が建っていますが、
約90年前の昭和の始め、アマゾナス州、パラー州などアマゾン川の流域地方で
は、日本人は超マイノリティー。

それだけに、意外な日本人同士がつながっていて、その人脈の解析はとても面
白い作業で、この上塚司は、その「要〔かなめ〕」の一人です。

*上塚先生によると、余部がまだあり、1冊3,300円で頒布可能とのこと。ご希望の方は発行所にご連絡を。


池ノ上の「海外植民学校」のあらまし

年譜

大正 6年 3月27日  学校用地の地上権取得(現・池之上青少年会館、東電独身寮などの一帯)
大正 6年 9月 6日  南西端の牧場(現・NHK社宅)取得
大正 6年10月 8日  校舎の建築請負契約締結(請負人・本郷区湯島 柏木組)
大正 7年 4月27日  校舎落成式挙行
大正 7年 6月 3日  学校の設立認可(同年 4月 9日申請)
大正 7年12月27日 (財)海外植民教育会設立認可(同年 8月22日申請)
 












大正7年4月落成の校舎(現・池之上青少年会館の場所)
 
 


















開校当時の配置図
このほか豊多摩郡代々幡町代々木三角橋1240番地に出版部があった

大正10・11年      学生スト
大正11年 4月     労働部を分離し崎山の個人経営に移管(後・植民義塾)
大正12年 3月14日  (財)海外植民教育会解散、学校の設立者を崎山に変更認可
                 この間、当初取得の牧場を失う
昭和 3年 8月ころ   女子部校舎・寄宿舎新築↓
昭和12年 5月21日  学校の設立者を崎山から今井修一に変更認可
昭和14年 4月25日  学校の設立者を今井修一から今泉孫次郎外1名に変更認可
                植民義塾は片野敬之助の経営に
昭和16年 3月[推定]  学校閉校
昭和17年ころ       関東配電の職員研修所に
昭和26年 5月 1日  同社解散にともない東京電力に現物出資
昭和31年        東京電力中央社員養成所
昭和30年代半ば      旧・本校舎解体
昭和37年ころ      日本電気協会電気技術学校+東電中央社員養成所寮
 













昭和49年ころ      最後まで残っていた旧・職員宿舎解体
昭和50年ころ      以後、東電独身寮+世田谷区立池之上青少年会館など

 

海外植民学校の前身の一つ「学生労働会」

 















[推定]渋谷(東京市渋谷町上渋谷24番地)時代
    前から2列目左から3人目の山高帽が崎山
 
























後に同志社大を卒業し、植民学校の教員になった此島喜三郎の労働会に在籍していた当時の牛乳配達姿
 

昭和3~9年ころの海外植民学校


海外植民学校校友会〔伯国〕50周年記念誌【堤剛太氏(汎アマゾニア日伯協会第1副会長)ご提供】より

・画面右端に女子部の校舎とその左奥に女子部の寄宿舎がある
  これらが建ったのは、昭和3年

・画面中央の並木の向こうに屋根の棟に換気塔のある牛舎らしい建物がある
  この建物は、昭和9年の「学校一覧」掲載の写真には写りこんでいない