第5号pp.19-26「[余録]北海道拓殖の史料から」

[余禄]北海道拓殖の史料から
                          木   村     孝
■崎山家の北海道での足跡については…
 比佐衛に加え弟松吾のそれを含めて前号で辿ってみましたが、今回は、その入植や開墾の経過を手許の画像資料などで跡付けてみたいと思います。


北海道廰拓殖部「開墾及耕作の栞」同廰/1914・刊 p.6

■拝み小屋


高嶋弘志・監修「釧路・根室の100年」
郷土出版社/平成14年・刊 P.68
入植後、まず必要になるのは「家」です。秋に入植した場合は、すぐに来る冬に備える必要がありますので、とくに切実です。
 とはいえ、本格的な建物を当初から建てるのは、時間的にも、材料の調達の面からも、通常は不可能なので、とりあえずは、敷地を切り拓いたうえ、伐採した木のうち比較的真っ直ぐなものを選んで縄で縛って結びあわせて家型の骨組みを組み立て、屋根と壁を草や笹や木の皮で覆った、後でご説明する「着手小屋」と呼ばれた掘立て小屋を作るのが原則とされていました*01
 しかし、食料を自給するための農地の開墾にも、春先に入植した場合にはすぐにも、秋に入植した場合でも*02翌年春の雪融け直後には農耕に入れるよう、急いで取り掛かる必要もあります。そのため、まずは、当座の雨露や雪と寒さをしのぐための、「拝み小屋」と呼ばれる「屋根だけの小屋」を建てるのが一般的だったようです。
 冒頭の図は、道廰発行のいわば「開拓マニュアル」*03 に掲載されているものですが、この「拝み小屋」の写真は、あまり残っていません。そもそも、この時代には、写真機自体が普及していませんでしたし*04 、そんなことにかまけていられないほど忙しいからこそ「拝み小屋」で我慢するのですから、当然といえば当然のことです。そのため、やや時代が下るのですが、昭和初期、道東地域で移住者が共同で建てた拝み小屋の写真を、「造り」がわかりやすいこともあって掲げることにします。



 
前掲「開墾及耕作の栞」口絵

■着手小屋

「根室国標津郡標津川上流ボッケ温泉之景」
北海道立文書館・蔵ID: [P-1/326-2]3
(中標津町・蔵の複製から抜粋)
上の写真が「本格的な仮小屋」といえる「着手小屋」の建築中の写真です。柱の根元を土に埋める掘建て小屋で、屋根面を支える垂木〔タルキ〕の代わりに木材を製材したときにできる皮近くの部分を使っていますが、このような骨組でも10年ほどは保ったようです。










 下の写真は、やはり明治期に道東地方の山中にあった温泉小屋ですが、着手小屋と基本的には同じ造りで、屋根や壁をありあわせの植物で葺いた様子がわかりやすいので、参考のために掲げておくことにしました*05













北海道廰拓殖部「殖民地大觀」同廰/昭和6年・刊 「住宅建築」

■住宅建築

 開墾が無事終わって土地の払下げを受けるなど、生活が安定しだすと余裕のある家から順次、次ページの写真のような本格的な住宅を建築することになります。

 といっても、あいかわらず柱は掘立てだったのですが*06それでも、壁にきちんと製材された板が貼られています。また、数や面積は少ないとはいえガラス窓も入れられたようです。




■土地の開墾


北海道廰拓殖部拓殖課「北海道殖民図解」同廰/明治33・刊
p.8「天鹽國多寄原野伐木の景」
土地を開墾する手順については、前掲の北海道移住案内の解説*07が簡にして要を得ているので、少し長くなりますが、引用することにします。
「開墾すべき土地樹林にして春季着手するとき先ず斧と鋸をもって伐木し 然る後熊笹又は雜草を刈り去り之を適宜の場所に片付け漸次開墾すべし 又晩秋より開墾の準備を爲すときは雜草または熊笹を刈り其のまヽ放置し 冬季に至れば伐木して薪炭を製し 不用の草木は翌春消雪を待て焼き棄て 若し草原にして春季着手するときは消雪の後稍乾燥の時候を待て之れに放火し雜草を焼払い開墾すべし」(適宜空白追加)*08






前掲「殖民地大觀」「開墾」
寒冷地なので、雑草を刈ったり抜いたりしただけでは、簡単に腐って肥料になってはくれませんし、熊笹類はなおさらで、雑草などを取り除いて耕地にするには、いわゆる焼畑をするのが、焼けた植物が肥料になるので、最も効率的で一石二鳥の方法なのですが、山火事になる危険もありますので、道廰では、安全のため「山野火入取締規則」*09を制定していました。









前掲「殖民地大觀」「移住當初」
左の写真は、タイトルの「移住當初」というより、ある程度開墾が進んだ状態です。
 一部の木は切り倒されずに残されていますし*10 、手前左の作物(雑穀のようです)が生えているところにも、山焼きで黒く焦げた高さ1メートルほどの木の切り株が残っています。「木株を最初より取り去らんとするには非常なる手數を要するもの故開墾の時には其の儘に殘」すべきものとされていたためです*11
 狭い限られた農地を丁寧に使っていた、今でいう内地(当時は「府縣」と呼んでいました)の農民の目には、随分乱暴な農業に見えたと思われますが、開墾当初は、まずは当面自活するための食料を収穫するのが最優先ですので*12、道廰でも「開墾地は府縣熟田畑の如く或は庭園の如く餘叮嚀に失せんよりは寧ろ粗大なるも廣く耕し播種の期を誤らざる樣注意すべし」*13 と警告しているほどだったのです。
 もっとも、この状態のままでは、開墾が進んで農地が広がったときには不可欠になる牛馬を使った耕作に差し支えが生じるので*14 、最終的には取り除く必要があるのですが、「…耕す際年々根元を切り込む樣にすべし しかるときは大抵の木株の根は四五年にて腐り容易に取り除」*15 くことができたようです。


■このような開墾の手順・方法は…

機械力がある程度普及する戦後まで、時期や場所にかかわりなく、大きな変わりは基本的にないわけで*16、比佐衛らが後に移住したブラジルのマウエスであっても野生している植物が違いこそすれ、これと大きな違いはなかったと思われますし、武市安哉(以下「安哉」)率いる聖園農場(以下「農場」)でも、当然、変わりはなかったはずです。
 ただし、当時このように集団で未開の地に挑んだ移民団体は他にも数多くあったようなのですが、それらの団体に比べ、安哉らは以下のような様々な点で恵まれていたことがわかります。

●用地の選定
 前号でふれたように*17、安哉は、明治25年の北海道開拓使払下げ問題の視察の折、翌年に農場が設けられたウラウシナイ周辺を視察しています。その契機は、直前に訪れた空知集治監の渡辺惟精の助言に従って、それまでの視察の過程で着想した北海道に「キリスト教精神による新農村の建設」をするための適地を探すためとされていますが*18、一方ではキリスト教者として共に高名だった樺戸集治監の典監の大井上照前〔おおいのうえ てるちか〕と教悔師の原胤昭*19に会い、また同集治監に収監されている政治犯を慰問する目的もあったと思われます。
 いずれにせよ、大井上や原は安哉の構想に好意的に対応し*20、候補地として、当時は樺戸集治監の管理下にあったウラウシナイを挙げ、安哉の視察に同集治監の農業指導員だった小野田卓弥*21を案内役として同行させました。
 このウラウシナイ原野については、北海道廰発行の殖民地撰定報文にも基本的な情報が記載されてはいます*22。しかし、後に述べるように、北海道に特化した、いわゆる「北方農法」についての知識ばかりでなく、職掌上、集治監の管理下にあるため当地のミクロ的な地理にも精通していた小野田の説明に、もともと土佐の郷士の家の出身で農業者でもあった*23安哉が信を置いたであろうことは、入植後、小野田に農場の農事顧問を依頼したことからも窺えます。

●物的インフラ
 ウラウシナイには、当時すでに、月形を起点として、北に向かっては日本海岸の増毛まで「囚人道路」と呼ばれた増毛街道が貫いている一方、当別までの道路が開鑿されていたので、結局、南方向にも、ウラウシナイからは、月形、当別、石狩川河口を経由して小樽方面までの道路が開通していたことになります*24。また、東の石狩川には、夏季には石狩川汽船という会社の外輪船が就航していたようです*25
 しかし、入植直後の安哉らにとって、はるかに重要なインフラとしては、この道路沿い、現在の札的駅北東あたりにあったとされる「助け小屋」と、同じく浦臼駅北東あたりと推定される「集治監小屋」の存在をあげることができます。前者は、その名前からみて吹雪などの悪天候時に増毛街道の通行者が避難するために設けられていたものと考えられますし、後者も、当初は増毛街道開鑿のために使役された受刑者の宿舎として建てられ*26、工事完成後も「助け小屋」と同様の目的のために解体されずに残されていたものと思われます。
 安哉は、これらを利用する許可を道廰や集治監から得ていたようで、「助け小屋」につては、先行して現地に入って測量にあたった久万沢佐一郎ら「土佐山組」とよばれた人たちがここを拠点にした*27ほか、1次入植者中の婦人子供連れの者も一旦ここに入っていますし*28、「集治監小屋」についても、2次入植者の一部が仮住まいに使っています。
 時代は下りますが、昭和2年から始まった北海道第二期拓殖計画では、特定地と呼ばれる一部の殖民地で、道廰が「共同居小屋」と呼ばれる建物を準備し、入植者が自身の住まいを建築するまで、そこに住むことができるように配慮されていました。当座「雨露をしのぐ」ことができ、また、非常時には駆け込んで難を逃れることができる、このような施設が、入植者が安心して開墾に専念するために有効であることが、いわば公式に認められたことを意味しています。

 また、食糧、雑貨など生活に必需な物資を調達するための市街地としては、北東に砂川、南西に月形がありました。とくに後者は、樺戸集治監の初代典獄の月形潔*29によって、小樽等からの商人の誘致が図られていたので*30、国の官庁である集治監、看守などの関係者や家族の需要に応えるため、日常的な資材・食糧の供給には十分対応できていたと思われます。
 加えて、通信の面でも、第2次入植者が到着した27年春からは、人口が増加したためでしょうがウラウシナイでの月形郵便局による集配が開始されていますので、大きな不自由のない状態になったといえます*31

●人的サポート
 以上のように、聖園農場は、当時の北海道の未開地の中では、むしろ例外的といってよいほど恵まれていた場所に作られたといってよいのですが、これに加えて、農場に対する人的なサポートを見落とすことはできません。

村山覚次郎 *32
 村山は、安哉らと同郷、かつ高知教会の元教会員で、小樽の手宮教会の創立に尽力した人物です。前年の安哉の視察の際も空知集治監のある市来知〔いちきしり〕(現・三笠市)まで案内していますし、安哉一行の入植にあたっての宿や当座の食料の手配を引き受け、さらに、その後も農具・食糧をはじめとする必要物資の供給に尽力しました*33 。これは、明治27年6月に農場自身が岡定吉を主任とする販売部を設けるまで*34 続いたと思われます。
 いくら近いといっても、拓殖初期の北海道のことですから、農場本部のある札的から、月形の市街地までは約15キロ、近い方の砂川まででも12キロほどありますので、どちらに買い出しに行くのも1日仕事になります。ただでさえ人手が限られていたうえに、マラリア罹患者が続出したといわれる*35第1次入植直後の時期に、このような外部からの援護が得られたことが、いかに農場本部など諸施設の整備や農場内の道路の開鑿を助けたかは容易に想像できます。

小野田卓弥 *36 
農場の開拓に、おそらく村山以上の大きな貢献をしたのは、前年安哉に同行してウラウシナイを案内した、この小野田でしょう。
小野田は、その学歴・職歴*37からもわかるように、当時まだ数少なかった北方農業の「専門家」であり、前記のように当初聖園農場の農事顧問を引き受けたばかりでなく*38、安哉に共感して、明治27年5月には集治監を辞し、自らも農場に入植しています*39。明治32(1899)年3月36才で死亡するまで、農場の農事に加えて、その本部組織や農場内にできた聖園教会の役員として、農場全体や教会の運営にも指導的な役割も果たしていました。





しかし…
農場にとって、物心両面での最大・最強の支援者は、あるいは旧・土佐藩主山内豊景侯爵かもしれません。山内家は安哉の構想する農場への6000円の出資を引き受けただけでなく、現在の価値で約1億円に相当するといわれる1万円もの「餞別」を贈っています*40
 未開地の開墾は、通常は、最初の収穫期まで持ちこたえられる食料などを準備できるか、そして、最初の収穫期に次の収穫期までの食料などを確保できるかが、成否の分かれ目になるのですが、資金にゆとりがあれば、多少の目論見違いが生じても「もう1年」、さらに「もう1年」と持ちこたえて、開墾を成功に導くチャンスが広がることになります。
安哉の言によれば、この餞別は安哉の「政敵」谷干城〔たてき/かんじょう〕陸軍中将のはからいによるものとされているのですが*41、谷は、安哉の計画の協賛者として名を連ねているばかりでなく、安哉の入植後間もない明治26年8月、弱冠16歳の侯爵を案内して農場を訪れています。その折、侯爵は、比佐衛ら入植者たちに「国家のために、大いに努力するよう」訓示すると共に、出迎えた同地の有志に「武市がお世話になります」と礼を述べたといわれています*42。明治維新後とはいえ、土佐藩という大藩の「お殿様」が、かつての重臣ならばともかく、悪く言えば「たかだか郷士」のために、わざわざ辺境の蝦夷地に遠路をいとわず「頭を下げに来た」ことになります。
この時点で、農場は、当初の「安哉の構想する理想郷」から、すでに、旧幕時代の身分や当時の政治的な立場を超えた、「オール土佐藩」のプロジェクトに変貌していたといえるかもしれません。
                                                        -完-
原文脚注

01  北海道廰「開墾及耕作の栞」同廰/大正3年・刊(初版明治39年)p.6(以下「栞」)
02  北海道廰殖民課「北海道移住案内 第四」同廰/推定明治29年ころ・刊(以下「案内」)によれば、むしろ「資力の十分なるものは必らず九月末より十月までに移住して翌春開墾の準備を爲す樣心掛くべし」としている(p.20)(以下「案内」)
03  前同。実際には、このような広さ3間(5.4m)×5間(9m)という大きなものは少なかったようである
04  もっとも、聖園聖園農場への明治27年4月の第2次移住者の一人安岡盛資には写真技術があり、農業の傍ら写真屋を兼業していたという(崎山信義「ある自由民権運動者の生涯」高知県文教協会/昭和35年・刊P.190 )
05  同一写真が、北海道大学図書館北方資料DB〔以下「北大DB」〕(ID:0B022010000000000)にある
06  相当深く基礎を作らないと、冬には地盤が凍って家が浮き上がって歪んでしまう「凍上」という現象が起こるので、それを防ぐ意味もあったようです。
07  前掲「案内」pp.21・22「開墾法」
08  なお、前掲「栞」pp.7~15には、さらに詳しく土地の状況に応じた開墾法が解説されている。
09  前掲「栞」pp.119・120
10  農地の場合、全体の2割程度は、防風や燃料採取用に樹林地を残すべきものとされていた(前掲「栞」p.15)
11  前掲「栞」pp.12・13
12  入植初年度は食料を購入する費用が必要で、明治29年ころのデータでは、移住時に、仮小屋の建築、農具や家具の購入費と合わせて、一家4名分で53円65銭5厘を準備すべきものとされていた(前掲「案内」pp.47-50)。
13  前掲「案内」p.22
14  同p.28参照
15  前掲「栞」p.13
16  開墾後の耕作については、馬に牽かせるプラウ(洋鋤)、ハーロウといた農機具〔中標津町郷土館 資料紹介の「農業関係」<http://www.nakashibetsu.jp/kyoudokan_web/l07_1_nou.htm>参照〕が普及していった。農場でも、明治28年に、小笠原袈裟次一家がプラウを導入している(崎山信義「ある自由民権運動者の生涯-武市安哉と聖園-」高知県文教協会/昭和35年2月・刊(以下「安哉伝」)p.228)。
17  本誌4号(以下「前号」)pp.6・7
18  「安哉伝」p.137
19  http://www.town.tsukigata.hokkaido.jp/3674.htm 参照
20  石狩川右(西)岸地域の拓殖は、同集治監にとって、初代典獄の月形潔以来の「今一つの業務」だったようである。
21  文久2(1862)年静岡生まれ、同県師範学校を卒業後、札幌農芸伝習所で学んだ後、日高新冠の御料牧場に勤務。釧路集治監(現・標茶町)で開墾事業教師を務めた後、樺戸集治監に転任して農事指導にあたっていた(「安哉伝」p.162)。この間キリスト教に入信し、樺戸教会設立者の一員でもあった(同p.138)。明治27年晩秋に結婚(同pp.206・207)、同32年3月死亡(同p.232)。
22  同報文pp.28-30(「前号」p.12参照)
23  「安哉伝」p.4
24  道路の路線名については、当時からの変遷が多いが、浦臼・札幌間に関する限り、略・国道275号にあたる。
25  「安哉伝」p.207。なお、前出の小野田は、後に同社の重役も務めたようである。
26  同p.191
27  同p.163
28  同p.164
29  前号p.7註8参照
30  http://www.town.tsukigata.hokkaido.jp/3672.htm
31  「安哉伝」p.204。それまで郵便物の発受は、6キロ離れた於札内〔おさつない〕の駅逓所(明治24年開設)まで通う必要があった(「安哉伝」p.189)。
32  前号P.30 【写真2】前列右から2人目。後述する後列右端の小野田と同様に、泰然とした安哉は「別格」として、緊張した表情の比佐衛ら入植者と比べ、表情に「ゆとり」があることが一目瞭然である。
33  「安哉伝」pp.160・161,172
34  同p.204
35  同p.174
36  前号P.30 【写真2】後列右端
37  前註21
38  「安哉伝」p.166
39  同p.191
40  浦臼町教育委員会・編「浦臼ゆかりの人びと」同委員会外/昭和59年3月・刊 p.49
41  「崎山伝」Wp.46 
42  「安哉伝」p.180


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