2016年8月31日水曜日

海外植民学校の事実上の校歌「ラプラタの夕空」

この歌の成立過程については…
「母家」のWebページ
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/SgLaPlata.htm
で解説し、Midiファイルをページに追加しました。

その後…
「どうせなら」というわけで、当然ながら静止画ベースですが、ヴィデオ・クリップを制作して、YouTubeにアップロードしてあります
https://youtu.be/25n-CODKRkY
ので、ご興味のある方はどうぞ。

しかし…
どうにも経過がわからないのが、この曲の作曲家が「納所辨次郎」(1865-1936*1)とされていることです。
 納所は、すでに当時、作曲家としてかなり著名な存在で、植民学校が出来た後ならばともかく、学校もできていないうちから*2、本当にできるかどうかもわからない学校のために、この曲を作った。、というのも少々不合理に思えます。

【追記】2017/04/04
大日本音楽協会 編「音楽年鑑 昭和16年度」共益商社書店出版/S16・刊 p.79



現時点で…
考えられるのは2つ(あるいは3つ)の可能性で、
1 すでに納所が作曲したなんらかのメロディーを、いわば「パクった」。
2 植民学校設立にあたっての後援者の一人に、森村財閥の総帥である森村市左衛門がおり*3、その一方、納所は大正元(1912)年以降森村学園で教鞭をとっていたので、同校の創立者である森村を通じて作曲を依頼した。
(3 1のように当初は「パクった」が、後に2の縁を通じて、納所の了承を得た。)

とはいえ…
上記の1にしても3にしても、この可能性を裏付けるためには、この「ラプラタ…」に先立って、これと同じあるいはこれに近い曲を納所が作曲していたことが前提になります。
 これまで、いろいろと探してはいるのですが(画像と違って「一瞬でわかる」というものでもないため)いまだにそれらしい曲は、まだみつかっていません。

【追記】2016/09/04
どうも、これが元歌のようにも思えます。時期的にも矛盾はありませんし。

豊島〔ほうとう〕の戦【明治海軍軍歌】  
https://www.youtube.com/watch?v=-h9wybv9cgM
の始めから2分30秒以降

(ここ
https://youtu.be/7mAvnwh6Yrw
にもありますが、上のリンク先の方が音がクリアです)


解説、歌詞と譜面が、ここ
http://blogs.yahoo.co.jp/nippon0banzai/28957706.html
にありました。

当方の Web にある譜面
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/image/LaPlataScore.jpg
と、
このブログ掲載の譜面
http://blogs.yahoo.co.jp/nippon0banzai/GALLERY/show_image_v2.html?id=http%3A%2F%2Fblogs.c.yimg.jp%2Fres%2Fblog-0f-08%2Fnippon0banzai%2Ffolder%2F985532%2F06%2F28957706%2Fimg_0%3F1327233658&i=1
を見比べても、調は違いますが、出だしのメロディラインは同じように思えます。

実は

YouTubeへのアップロードには、その種の情報提供を得たいとの意図もあったのですが、
上記のとおり解決しました。



*1 国会図書館典拠データ検索・提供サービス<http://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/00206601>
*2 作詞者の大島は、学校設立に先立つ崎山比佐衛の遊説に同行して、大正7年3月9日、大阪の天王寺公会堂で、この歌を独唱している。 http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10027206&TYPE=HTML_FILE&POS=1
  また、吉村繁義「「崎山比佐衛傳 アマゾン日本移民の父」
 http://www.brasiliminbunko.com.br/Obras/157.pdf
の164ページ目によれば、「良い声の持主」だった大島は、大阪に先立つ、崎山に同行した大正5年9月から同6年2月までの北海道遊説の折も
「主幹の講演のあと、その壇上に立って独唱した。これがヒットして、一行のゆく処『ラ・プラタの夕空』で風靡した」という。
*3 海外植民学校の機関誌の雑誌「植民」(当時)大正9年3月号【大熊文献】の7ページに、「海外植民學校の恩人」と題して、澁澤榮一、大隈重信らのそれとならんで「故森村市左衛門男(爵)」の写真が、最上段に掲載されている。


【追記】2017/05/13

納所の「豊島の戦」。

この曲には、

拓務省拓務局「ブラジル移住者便り」同/1934・刊
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1272849
掲載の

原 篤 作歌「平野青年同志團歌」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1272849/31
同「夜間中学 平野義塾、塾綱?歌」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1272849/32

のどちらの歌詞も「うまく乗る」。

 これ以外にも、海外雄飛青年の愛唱歌とされる歌詞で、この曲に載るものがあり、
いわば気勢の上がる旋律として、重用されていたように思われる。


2016年8月17日水曜日

書籍「アマゾン 日本人移住八十周年」

■オークションに…

ブラジルの「ニッケイ新聞社」が平成22年8月に発行した、この本


が出ていましたので、落札しました。
 
■ブラジルの…
 日系人を採り上げた本は、サンパウロをはじめとするブラジル南部を中心とするものがあらかたで、たとえば、数年前に入手した
 
ブラジル移民資料館ほか・編「目で見るブラジル日本移民の百年」風響社/2008年・刊
 
でも、北部のアマゾン川流域については、ほとんど「ついで」に触れている程度。
 
 今回の本は、アマゾン移住に特化した書籍でしたので、それなりに期待が持てました。
 
■確かに…
 中ほどの「移住地を訪ねて 連載編」では、9箇所の移住地を訪ね、主として「初代」の日本人移住者に丹念に取材しているのは、評価できるところです。
 
 
 
 
■しかし…
 アマゾナス州のマウエスについては、巻末の年表中でわずかに崎山の移住に触れている程度で「ほとんど無視」といってよい内容でした。
 
 しかし、この地は、崎山比佐衛の移住先(昭和7〔1932〕年9月)、というよりも、むしろ、それに先立つ昭和3〔1928〕年8月23日、同地に到着したアマゾン興業(アマ興)の取締役兼現地支配人の大石小作が率いる、三石久、久保田喜久郎、増田太郎、唐木道雄、羽野鶴雄、尾崎貞吉、石田喜由の7名の若者が、
  • 南米拓殖のパラー州アカラへの植民者(昭和4〔1929〕年9月。なお、その受け入れのため、トメアスーに上陸地点を定め、周囲の開墾に着手したのは4月)よりも、
また、
  • アマゾナス州パリンチンス下流のヴィラ・アマゾニアに植民地選定を兼ねて乗り込んだアマゾニア産業(アマ産)の上塚司たち(昭和5〔1930〕年6月)よりも、
先に、アマゾン川流域で、(少なくとも組織的にという意味では)初めて日本人が斧をふるった地なのですから、それなりの採り上げようもあるはずで、この扱いは、あまりに粗略だし、比佐衛同様にアマゾンの土となった大石に対する礼を失しているというほかありません。
 
■とりわけ…
アマ興の7人の若者のうち唐木、羽野、尾崎の3人は海外植民学校の卒業生。
また、同じく卒業生で昭和4〔1929〕年8月、後の崎山の移住地に、いわば「勝手先遣隊」として入った山之内登は、後にアマ興移民とアマ産との橋渡し役として重要な役割を果たしているのですから、マウエスを無視するかのようなこの本は、当方にとっては「非常に残念な本」だったのでした。


■もっとも…

考えてみると「ニッケイ新聞社」は、サンパウロ所在。
 
 
そこからみると、アマゾン河流域は、意識の中では、未だに「遥か彼方の『ほとんど異国の地』」なのかもしれませんね。
 
 90年史にはぜひ期待したいところです。