2017年11月25日土曜日

池ノ上の「海外高等實務學校」

 ■この学校の…

帰趨については、研究誌の次号(7号)で採りあげる予定であるが、その池ノ上の海外植民学校跡への移転時期についての史料に乏しかったところ、思わぬところに史料が発見されたので、メモ代わりにここに採り上げることにした。

■海外植民學校の設立者は…

昭和12年4月に、実質的な創立者である崎山比佐衛から、ほぼ大正7年の創立時直後から講師として勤務し大正末ころからは主事あるいは校長代行を務めていた、いわば学校の城代家老である今井修一に変更され、さらに、その2年後の昭和14年に至って、当時、神田区淡路町にあった「海外高等實務學校」〔以下「実務学校」〕を運営していた飯泉孫次郎・良三兄弟に設立者が変更されている。

 この実務学校は、一時期は植民学校の校長を務めていた井上雅二が、昭和7年に「商業移民,農業移民の予備教育及び養成」を目的として設立した学校であり、とりわけ、同じく井上が設立した南洋協会の事実上の付属機関として南洋方面への商業移民の養成に力を入れていたので、当時の時点では、南米指向の植民学校と南洋指向の実務学校が事実上一体化することで、一応の補完効果が期待できたのではないかと思われる。

 そして、実務学校は、設立者変更申請と同時期に、校舎を従来の神田区淡路町から植民学校の本校舎に移転する認可申請をしている(植民学校は、従来の女子部の校舎を使用することになっている)のだが、この校舎の移転がそのころ実現した形跡がないのである。

 この学校が植民学校の場所に移転したことを示すのは、昭和19年に、定員250名の全寮制の学校として存在したという史料であり、昭和14年からこの間5年間の消息を明らかにする史料は見つかっていなかった。

■ところが…

最近になって入手した、世田谷区上町の同区立郷土資料館で、平成29年10月28日から12月3日まで開催されている特別展「地図でみる世田谷展」
の図録を見たところ、その【083】ページに掲載されている
東京急行電鉄新宿営業局「東京急行電鉄小田原線江ノ島線井ノ頭線沿線案内図」S17/05・刊
の解説文に

「前頁【081】【082】〔小田原急行鉄道「沿線案内 新宿小田急電車」S14〕に表示されていた軍事施設、工場等がこの案内からは消えている。…
 世田谷区域とその周辺では、第二陸軍病院分院、陸軍自動車学校が消え、陸軍獣医学校、駒場練兵場は、海外高等実務学校と農業教育専門学校に、帝大航空研究所が日本民藝館に置き換えられている。」

との記述があった。

 念のため、実際に世田谷区上町の郷土資料館に行き、図版の原本




2017年11月26日、世田谷区立郷土資料館で、原本を接写。


を見てみると、昭和14年の地図の右端下の「池之上」駅左の位置には、学校のやや南の世田谷区下代田(当時)にあった陸軍獣医学校が示されていたのが、いわゆる戦時改描*の一環として、絵によるマークはやや小ぶりの建物のそれに、その左脇の説明文の方は「陸軍獣医学校」から「海外高等實務学校」に書き換えられていることがわかる。





2017年11月26日、世田谷区立郷土資料館で、原本を接写。


























* http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000138824
 http://www.gsi.go.jp/common/000024734.pdf

■この時期の…

帝国陸軍撮影の空中写真では、
  • 昭和16年6月25日撮影のものでは建物の配置については従前と変化がなく、というよりも、むしろ敷地内の樹木が伸び放題にされて校舎がその中に埋まっているような状態であるのに対し、

国土地理院・蔵の帝國陸軍1941/06/25撮影空中写真〔95C3-C6-90
から抜粋し画像調整
中央やや上の学校敷地は、とくに右(西)半分が樹木に覆われている

  • 昭和19年12月23日撮影のそれでは樹木が大きく刈り払われているいえ、敷地の東端のやや北寄りに寄宿舎と思われる大きな建物が建っている

国土地理院・蔵の帝国陸軍1944/12/23撮影空中写真〔95C3-C6-90
を抜粋し画像調整
学校敷地の右端中央に新しい建物の屋根が白く写っている
ことがわかる。

■結局…

実務学校では、昭和14年に申請した校舎の移転はすぐには実行に移されず*、昭和16年度に敷地を整備して寄宿舎棟等を新築するなどして体勢を整備したうえで、同17年度からこの地に校舎を移したのではなかろうか。

 拓務省「拓務要覧 昭和15年版」(財)日本拓殖協会/昭和16年9月・刊(国会図書館ID-以下「NDLID」-:1440163)のp.547でも、実務学校の所在地は「東京市神田區淡路町一ノ一」とされ(植民学校も同ページにリストアップされている)ていて、昭和14年版(NDLID:1462982 p.564)、同13年版(NDLID:1452393 p.541)から変動がない。

 一方、
・昭和15年2月2日発行の官報3920号128面
https://dl.ndl.go.jp/pid/2960415/1/33
の生徒募集広告(満蒙科、南洋科、南米科)では、所在地が
東京市世田谷區北澤二ノ四五 電話世田谷三一六二番

・南進青年会 編「大南洋を拓く」拓南社/1942・刊 p.215
でも、所在地が、
東京市世田ケ谷區下北澤二丁目四五番地
となっている。

 官報広告については、学校側が官報印刷所に広告原稿を出稿していたことになるので、昭和15年4月までに申請した校舎の移転を行ったことになる。

 なお、まだ史料は見つかっていないが、昭和19年の空中写真に写っている大型の建物は、あるいは、昭和17年4月に当時の関東圏の電力事業者を統合して設立された関東配電*がここに設置したと謂われる、同社研修所の寄宿舎の可能性がある。

*逓信大臣発 昭和16年9月6日付 電第一三九一號「關東配電株式會社設立命令書」による


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