■海外植民学校の…
創立者である崎山比佐衛は、昭和14年7月24日、昭和7年に一家を挙げて移住した、ブラジル、アマゾナス州マウエスで生涯を閉じた。
その訃報が日本に伝わるまでには、当時の世界情勢もあって、かなりの時間を要したようで、吉村繁義「崎山比佐衛傳 アマゾン日本植民の父」*には、以下のように記されている。
「…『おばあさんや、今日は疲れたぜや、歩く力がないもんじやけに這って来た」
といわれ、床に就かれてから四日目、再び起き上られる事もなくアマゾンの万物寂として眠る未明、静かに息を引きとられたのであった。時に一九四一年七月二十四日、享年六十七歳であられた。先生の亡骸は奥さま、慰与子姉の涙の手に依って清められ、先生にふさわしい有り合せの板切れに依って山内登兄、大川伝兄、忍兄等の手に造られた粗末な棺に安置され、マウエスの湖畔を渡り、マウエス市墓地に埋葬された。」p.189
「彼の永眠したころは欧洲といわず、東亜といわず世界をあげて大戦乱の渦中にあった。通信機関も殆ど麻痺状態に陥っていたので、その訃音が会社機関を通じて東京に届いたのは同年の十月一日であった。」p.191
「この悲報を受けると同時に海外植民学校では直ぐに今井修一が委員長となって、崎山校長追悼式を執り行うこととし、十月十二日渋谷教会堂に於て、石垣勝三郎牧師司式のもとにキリスト教式で盛大に行われた。大東亜戦の勃発も間近いときで、東京の空気はひどく緊迫していたが、当日は朝野有志が多数参列して、この偉大なる植民指導者の死を悼み、その霊を弔うた。」 p.193
*同書の3種の奥付表記については
参照
■しかし…
この著者の、吉村繁義は、当時南満州鉄道(満鉄)勤務で満州にいたし、また、崎山との血縁関係では甥、戸籍上は弟にあたる崎山信義も同様だったので、上記以上の追悼会の詳細はこれまで不明だった。
■ところが…
古書サイト、日本の古本屋で、たまたま検索してみたところ、冒頭の画像のような追悼会の案内状が出品されていることが判明し、さっそく入手した。
内容を文字起こししたものを以下に示すが、この案内状の中で、ことに注目しているのは、この追悼会の委員の肩書である。