■海外植民学校の…
まごうかたなき「城代家老」というほかない、今井修一が
井上雅二「世界を見渡しつつ : 興亜青年に贈る」刀江書院/S18・刊
pp.558‐559
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1060499/1/320
の、以下の記述で、崎山のほぼ1年後にあたる昭和17年7月ころ死亡していたことがわかった。
海外植民學校創立以来、永く苦心して人材を養成し來つた主事の今井修一君が、未だ五十余歳の若さで卒然として逝かれた。昨年の秋にはその長男*が陸軍士官として戰線に名譽の戰死を遂げ、その傷み未だ消へざるに君は未亡人**と十八歳の次男***を殘して逝かれたのである。私は初代校長の崎山君がブラジルに移住された後を受け、顧問から校長となつたがそれは名ばかりで、一切は今井君の活動に待って来た。今その今井君を失って悲痛の感に堪へないのである。しかし、人生命あり、地上の生命が必少ずも全部ではない。精神的事業を爲した者には永生の道が開けてゐる。今井君の殘された教は永く盡きることなく南米、南洋、満州蒙の各方面に生きてゐる。それを思へば君以って瞑すべしである。
そこで左の一首を未亡人に贈って霊前に供へていたヾいたのであった。
三十一、今井修一君を悼む 七月三十日
開レ學育レ才三十年 一朝何事出二塵縁一
唯[斤火]遺韻長無レ盡 到處天涯衣鉢傳
學を開き才を育くむ三十年、一朝何事ぞ塵縁を出づ。
唯だ[斤火]ぶ遺韻長く盡きる無く、到る處の天涯衣鉢を傅ふ
** 未亡人 ひさ〔「世田谷区立若林小学校 創立百周年記念誌」口絵写真・pp.64-65/104〕
* 長男 智〔「海外植民学校 昭和九年度報告書」中「基本金」出捐者名簿より推定〕
*** 次男 勇〔同上〕
■この今井については…
断片的ながら意外に多くの史料があるのだが、なかなかそれらを「結晶」させるには至っていなかった。
ただ、この亡くなった時期が判明したことによって、おぼろげながら、前年の崎山の死を始めとする過去5年ほどに起こった多くの出来事が、それまでの、井上が示唆するような30年近く続いた緊張を途切れさせてしまったことが早逝を促したのではないかと思い至った。
既存の史料からの再発掘の必要もあり、どこまでまとめられるか自信はないが、その後の遺族の消息を含めて、このページに徐々にで追記してゆくことにした。
【今井の住所地判明】
北澤・代田のかつての市場を探していたら、たまたま、国会図書館・蔵の
丸之内新聞社・編「大東京紳士録 昭和2年版」同社/S02・刊 p.968
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1136477/1/607
に、海外植民學校主事当時の今井の住所が記されていた。
世田谷町世田谷1405
T07「郵便地図」第一荏原小学校附近抜粋 |
ブルーマップで同地を探したら、現在の世田谷区梅丘3丁目の1~3,14,15,17,18。
かつて、「秀じい」こと故・斉藤秀雄氏から、「小さいころ今井先生の家に連れていってもらったことがあって、荏原小のすぐ西のところだった。」と伺ったことがあったが、正に今井の妻ヒサが裁縫教師として奉職(T11~S33)していた旧・第一荏原小学校(現・若林小学校)から3ブロックほど西に位置する場所だった。
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