■はじめに
本稿は、内容の多くを、別稿での「某大学院のドクターコースの院生さん」こと、北海道大学大学院文学研究科博士課程在籍の大熊智之さん(現・北九州市立大学 文学部 比較文化学科 准教授)からご提供いただいた貴重な文献に依拠している。以下、それらについては【大熊文献】と表示する。
■大正7年4月28日:海外植民学校創立
「崎山比佐衛傳 移植民教育とアマゾン開拓の先覺者」吉村繁義・著 海外植民学校校友会/1955年・刊(以下【吉村】)
Web版:http://brasiliminbunko.com.br/157.Sakiyama.Hisae.Den.pdf
「世田谷町北沢二丁目(現在帝都線池ノ上停留所付近)…に個人経営で乳牛七十頭収容能力のある牧場が、牛乳処理の施設一切一括して売物に出たのでこれを買収することにした。付近一帯は畑だつたので、牧場に接近して学校敷地を選定したが、地主が頑として手放さないので、止むなく建築敷地と演習用地として四千坪を借り受けた。
新校舎建築工事に着手したのは大正六年九月、落成は翌七年四月末であつた。
これより先き校舎と殆ど同時にその近くに工事を起した寄宿舎は、前年十二月末に落成した。」(pp.105・106)
「学園には校舎、寄宿舎の次ぎに地理的に不便を補う必要から校長宅、外三戸の職員住宅を新築した。」(p.136)
「二千坪の敷地と5000坪の地上権*を得て、
其上に本校舎の建坪が百八十坪、
生徒の牛乳を絞り配達する牧場が建坪二百四十坪、
消毒室が二十坪、
寄宿舎と住宅が百五十坪
で同計六百坪の建物が出来ました」(p.110:「事業経過報告」衆議院議員・創立委員 富田幸次郎)*校舎のあった、代沢2丁目44番の土地の閉鎖登記簿に、以下の地上權設定登記がある
乙区壱番
大正六年参月弐拾七日
受附第五九五號〃年〃月弐拾六日ノ
地上權設定ニ因リ豊多摩郡渋谷町
大字上渋谷弐拾四番地崎山比佐衛ノ爲
メ存續期間大正六年七月ヨリ大正拾六年
五月マデ九年拾壱月? 地上權ノ範囲土地
全部 地上權設定ノ目的
建物所有 地代壹ケ月金拾七
円七拾戔弐厘 地代支拂時期毎月弐拾五日
讓渡シ得サル特約
ノ地上權ヲ登記ス
なお、乙区弐番
昭和貳拾貳年七月弐拾七日
受附第六六〇弐号昭和貳年五月参拾日
期間満了ニヨリ
壱番ノ地上權ノ登記ノ抹消ヲ登
記ス私立海外植民学校設立認可申請書 大正7年4月7日(東京教育史資料大系 第10巻 昭和49年3月20日・東京都教育研究所・篇/刊)
「創立費(抜粋)
敷地
金 7,295円
金 6,322円 敷地購入費
金 300円 地均費
金 263円 土地登記料
金 300円 砂利
金 100円 井戸
地上権、門、井戸垣、其他
建築費
金17,000円 校舎建坪180坪」(p.810)
「私立海外植民学校校舎及敷地平面図」【大熊文献】
東西:41間
南北:41間
■大正7年12月27日:財団法人海外植民教育会・設立
「大正七年四月末日現在調 東京府管内私立学校並教育法人一覧」東京府學事兵事課・刊
「名稱:海外植民教育會
財團社團ノ別:財
設立年月日」大正七、一二、二七
所在地:荏原郡世田ケ谷町下北澤六二
目的:
一、海外發展叉ハ實地視察ヲセントスル優良青年教育家及適當ナル事業家ノ渡航奨勵励叉ハ其ノ補助
二、學校及寄宿舎ノ設置若クハ補助
三、雑誌ノ發行海外事情ノ研究若ハ其ノ補助
四、海外同胞ノ教育ニ関スル後援若クハ其補助
五、農園、牧畜、植林等海外植民ニ必要ナル實習場ノ設置補助
六、講演講習會開催若クハ補助
七、其ノ他理事會ニ於テ必要ト認メタル各種ノ事業理事長叉ハ代表者:-」(p.64?)
■大正11年9月:財団法人海外植民教育会・解散
【吉村】
「財産であった物件の一部を処理して負債を返却し、…学校を縮少して一層簡易化し、主力を労働部に注いで財政の強化に寄与せしめることとし、労働部寄宿舎は「植民義塾」と命名した。」(p.149)
■大正12年 設立者変更
「指令案(私立学校設立者変更の件認可)」都立公文書館蔵、305.B3.17、大正12年3月14日付け【大熊文献】
■昭和2年:崎山比佐衛 南米視察旅行に出発
■昭和4年4月(推定):女子部創設
雑誌「殖民」7巻8号(昭和3年)(日本植民通信社・刊)
「海外植民学校女子部の設立に際して」 今井 修一・著【大熊文献】
pp.103・104
◆愛媛県生涯学習センター中の、愛媛県史 社会経済 第5巻p.473相当ページ
本件の渡米先駆者→村井保固の条に
「○海外植民学校補助
海外植民学校(東京市世田谷区北沢・崎山比佐衛校長)に、昭和三年、三万四一〇円を寄付、女子部を開設、校舎五三坪、寄宿舎一四坪。男子部にも、牛乳搾取配達業の設備改善費三、二〇〇円寄付する。」とある。
「世田谷區勢總覧」區勢調査會/昭和9年8月25日・刊
「敷地4000坪 校舎200坪 寄宿舎 100坪
生徒 男女76 職員及其他11名」(p.32)
「昭和9年10月 海外植民学校一覧」【大熊文献】
「財産目録
敷地 4180坪(借地)
校舎1棟住宅附 154坪
女子部校舎 103坪
寄宿舎1棟住宅附 81坪
女子部寄宿舎1棟 27坪5合
住宅2棟 50坪
営業部建物及物置 50坪」(pp.29・30)
■昭和5年:崎山比佐衛 南米視察旅行から帰国
■昭和7年7月:崎山比佐衛一家 ブラジル アマゾネス州マウエスに向けて出発(9月)
■昭和10年1月11日:井上雅二校長に就任
■昭和12年4月 設立者変更
東京都公文書館蔵 昭和 12 年 4 月 28 日付「私立学校設立者変更の件」
「学校設立者」を、崎山比佐衛から、校長代理あるいは主事をつとめていた今井修一に変更
■昭和14年4月 設立者変更
「私立学校設立者変更認可指令案」都立公文書館蔵、322.D4.09、1939年【大熊文献】
1939年4月、設立者の、今井修一から、飯泉孫次郎・飯泉良三への変更を認可。
「今井修一ハ南米移住ノ為メ近ク渡米ニ付設立者トシテ直接学校ノ経営ニ関与スルコト困難ナルヲ以テ昭和七年五月以来海外高等実務学校ヲ設立シ海外進出ノ人物ヲ養成シツヽアル飯泉孫次郎、飯泉良三両名ニ於テ設立者トナル」
内偵によれば、飯泉孫次郎は、「現設立者今井修一トハ海外□□学校ノ知人ニシテ今般今井修一南米ニ本年七月移住ノ為メ双方協議ノ上円満ニ譲受クルモノナリ。/申請人飯泉良三ハ飯泉孫次郎の実弟ニシテ兄弟ノ関係ノモノナリ。」「海外高等実務学校ヲ設立シ常務理事トシテ実際ノ経営ニ当リ今日ニ至ルモノナリ」
飯泉良三は、「南洋協会常務理事、日蘭協会常務理事、拓殖大学教授ヲ務ム/海外高等実務学校(神田淡路町)ヲ経営ス」
一方、今井についてみると、雑誌『雄飛』昭和14年10月28日号(北海道海外協会・刊)所収
「伯國聖州に 海外植民學校 第二分校設立 今井修一氏渡伯」【大熊文献】「東京市世田谷区の海外植民學校創立時代より學長崎山比佐衛氏の股肱となりて其の経営を輔け崎山校長が去る昭和七年一家を拳けてブラジル國アマゾナス州マウェスヘ轉住以来校長代理となって専ら其の経営に當ってゐた今井修一氏は今回ブラジル國サンパウロ州に於ける第二分校設立準備に當り兼ねて同胞發展の實情視察の為め去る二十六日神戸出帆のヴェノスアイレス丸にて渡伯の途に就く旨佐々木本會常任理事宛挨拶状を寄せられた、因に今井氏渡伯後は飯泉孫次郎教授一切の経営に當り、叉植民義塾は本校より分離して片野敬之助教授其の経営に當ることなった。」(p.8)
今井は、同船に移民監督として乗船した
■昭和16年7月24日:崎山比佐衛没
昭和16年10月12日
校友会主催の崎山追悼会を中澁谷キリスト教會で開催
委員長の今井修一は肩書なし
酒井市郎は「元教員代表」
太田兼四郎は「出身者代表」
■昭和16年12月18日:リカルテ将軍帰比
【吉村】
「大正七年八月比島独立運動の志士で日本に亡命していたアルテミオ・リカルテ将軍が、海外植民学校のスペイン語、英語の講師として就任した。…爾来閉校の日まで勤続教鞭をとつて、生徒の尊敬を一身にあつめていた将軍は、大東亜戦争となり、比島が日本軍のために陥落すると同時に苦節四十年にして祖国に還る日を迎え、校友太田兼四郎副官として将軍と行動を共にした。」(p.209)
◆「フィリピンにおける日本軍政の一考察」池端雪浦
http://www.shachi.co.jp/jaas/22-02/22-02-02.pdf
によれば、リカルテ将軍が、フィリピンに帰国したのは、昭和16年12月18日(p.44)
■昭和17年7月ころ:今井修一没
井上雅二「世界を見渡しつつ : 興亜青年に贈る」刀江書院/S18・刊
「海外植民學校創立以来、永く苦心して人材を養成し來つた主事の今井修一君が、未だ五十余歳の若さで卒然として逝かれた。」pp.558‐559
■戦後の状況
◆昭和22年
植民学校用地、植民義塾用地が物納により国有化
◆昭和28年
植民学校用地を東京電力株式会社に、植民義塾用地を片野敬之助に、各払下
◆昭和30年
【吉村】
「帝都線池ノ上駅を数百歩南行すると海外植民学校であった建物だけは今も駐在である。一九一七年九月校長の乞いに応じてM・Cハリス博士、顧問創立委員だちか定礎式当日の記念にサインしたのを、特製の鉛筒に封じ込めたのが、あの建物の隅の親石の中に、納めたままの筈である。そして分不相応に立派な石の門には現在[東京電気株式会社]の看板が掛っている。」(p.210)
『植民』6号(海外植民学校伯国校友会/1956年・刊)所収
「母国校友會より崎山未亡人に送られた校友會並に故片野先生追悼會の模様」【大熊文献】
「一九一七年十一月十八日に植民學校校舎として定礎せられた建築は二棟が嚴として立っている。石の門柱は四十年前と變る所はないが東京電力株式會社社員養成所と書いてある。教育機關たるに變りはない事がせめてものなぐさめである。
植民義塾のノレンは片野氏の娘しもちやん夫婦で繼れ舊建築を世田ヶ谷區小學校に渡し南の道路に沿うて新建築は立派に出来て學生が十散人寄宿している。」_(p.10)
『植民』6号(海外植民学校伯国校友会/1956年・刊)所収
「噫、片野先生」土原茂功【大熊文献】
「塾の敷地は三分の二程隣接の小學校に接収され、道路に面した方に塾舎を移して服部夫妻に下宿の経營を任せ、一室を自分の物とし、門と植民義塾の表札は今もそのまゝになっていますこれは例え學校は整理されても、塾だけは南米から歸って來られる校友の爲に殘して置きたいと云う意志に他なく、苦學生の牛乳販賣によって細々ながら續けて来ましたが、時勢が意思と反し經濟上の苦難も伴い、小學校側からは擴張委員が頻りに交沙に来たりして一層のこと土地を寄附してさっばりしたいと云う気持ちもあった様でありました。」(pp.11・12)
◆昭和37年
「世田谷区住宅地図」住宅協会・昭和37年
「北沢二丁目」(p.9)校地:日本電気協会 電気技術学校
義塾;記載なし【追記】2013/06/08
◆「世田谷区立池之上小学校創立二十周年記念誌」昭和35年10月31日/同校創立二十周年記念運営委員会・刊 中の「協賛広告」には
東京電力株式会社 社員養成所
とある(p.79)。
◆昭和41年
全住宅案内地図帳「目黒区 全区」住宅協会地図部編集室/昭和41年・編
校地:1089図:北端部 電々公社池ノ上独身寮
1090図:中南部 東京電力社員養成所
義塾:1089図:日制産業池の上寮
【追記】2013/06/08
上記「昭和30年」の「『噫、片野先生』土原茂功」の冒頭の「(植民義)の敷地は三分の二程隣接の小學校に接収され」との件について
「世田谷区立池之上小学校創立二十周年記念誌」昭和35年10月31日/同校創立二十周年記念運営委員会・刊
中、同校の第五代PTA会長だった積田 茂氏*の「校地拡張の思い出」(pp.30~32)によって、多少詳しい経緯がわかった。
*「古老」の話にも出てくる「積田牧場」のおそらく2代目の当主で、昭和31年1月の片野の葬儀にも、花輪を贈っている(上記・土原)
:
終戦後の住宅問題は、池之上地区にも人口の増加を来たし、児童数も増加の一方であった。二部授業の解消、特別教室の充実、更にプール、図書館の建設、これらの問題を考慮し、どうしても校地は拡張せねばならぬし、又その時期は今を置いて他にないと結論に達したのは、今から約八年前の昭和二十七年頃であった。渡辺、藤村、大河原の諸氏及び私がその中心であった。そして、その仕事は所有者が二人であったので別個に、二回に分けて行うこと決めたものだ。
第一次 片野敬之助市所有地(旧阿川三郎氏)片野氏と私とは、父の頃からの約三十年に亘り御交際を願っていることも幸いして、買収交渉は和やかに進んだ。当時片野氏は高齢で病臥中であったが、嗣子御夫妻(服部礼介氏)も熱心に協力を誓われたので、所有者と交渉は問題なかった。
難関は、実際に買収費を支出する都側の諒解及説得であった。幸いに壱百万円の寄附金の募集の成果と、区側殊に二瓶教育長のご協力と、父兄各位の熱意がこの難関を克服したものであった。
:同書の「第二次」によれば、義塾の西側の、かつては、ここも義塾の敷地だったと思われる場所は、去るゴム会社元経営者の貸家があった土地だったが、もともと、その借家人との係争があったことに加え、後の元経営者の子孫から係争を起こされ、実際に学校用地となるまでには、かなりの紆余曲折があったらしい。
なお、池之上小学校創立50周年記念誌(平成3年3月・刊)によれば
・プールの完成が、昭和30年7月(p.43)
・図書館の完成が、昭和32年10月(p.44)
とされている。
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