【アーカイブ】調査サブノート:崎山盛繁氏インタビュー 植民義塾とマウエスと

 ■「崎山盛繁氏」とは


崎山比佐衛の実弟「松吾氏」のご子息です。

昭和8年、崎山比佐衛は、ブラジル国アマゾナス州マウエスに一族を挙げて移住したとされていますが、その際、崎山比佐衛と行動を共にしたのは(詳細は、後日、分析結果を掲載予定ですが、以下の一部は、いわば先駆けとしてブラジルに移住し、一部は、やや後れてマウエスに合流しています)

本人:崎山比佐衛・田鶴子夫妻

長男:崎山茂・君子夫妻
    
正確には「次男」(以下同じ)

次男:崎山忍

長女:慰預子・大川伝夫妻

次女:精子

姻族:父:神薗万助
      長男:一生
      次男:敞(タカシ):後・崎山精子・夫
      長女:美和子:後・崎山忍・妻

というように、比佐衛夫妻とその子供と係累だったのですが、その中で、盛繁氏は、比佐衛と共にマウエス入りをした唯一といえる親族です。

・そもそも、なぜ、比佐衛の係累中盛繁氏だけがマウエスに移住したのか

・盛繁氏は現在日本に在住しており、ある時期にブラジルから帰国したことは確かではあるものの、その具体的時期がはっきりしない

という状況でした。

平成24年9月13日午後2時30分、東京西郊の、とある場所のご自宅で、マウエスの比佐衛についての、少なくとも日本にいる唯一の生き証人のお話をうかがう機会に恵まれたわけです。

■崎山盛繁氏の聞き書きメモ

当日の盛繁氏のお話は多岐にわたりましたが、未整理の部分もあり、ここでは、植民学校に関連する範囲で、聴き取りメモをご紹介することにします。

●マウエス移住の動機

小学生のとき、おじちゃん(比佐衛)が講演に来た折、東藻琴の自分の家に泊まった。
講演は、面白い話だった。
そのとき、植民学校を出て海外へ雄飛することを勧められた。

そのことが頭の中に残っていて、
(網走・東藻琴で)小学校を出たあと、農学校に行き、その後、東京・世田谷に行った。

●当時の植民学校

植民学校は本来2年だが、比佐衛がブラジルに移住するのに同行したので、それまで2年弱いたことになる。
植民者になるには体力が必要で体を鍛える必要がある、とのことで、植民義塾で牛乳配達をした。

当時、もう学校に牛はおらず、牛乳会社からトラックで瓶詰めの牛乳が届けられ、それを配達していた。

1,2年生各1人で1組になり、朝と夕方の配達とを1月交代でしていた。
その配達料が学校の授業料に宛てられていた。

自分は「目黒組」で目黒高校のあたりまでが配達区域だったが、当時、組は20組ほどあって、植民義塾には40人から50人いたことになる。

朝の担当のときは、午前5時に写真のような車を引いて配達に出たが、戻ると朝食を食べる時間がないこともあったし、もう朝食が冷たくなっていたこともあった。

植民学校には、それ以外に、通いの学生も来ていた。

自分は、リカルテ先生からスペイン語、ポルトガル語を習った。
ほかに、スペイン語の酒井先生もいたし、児玉というポルトガル語の先生もいた。

当時、校長の宿舎は、植民義塾と道をはさんだ、学校の敷地内にあったことは覚えているが、具体的にどこにあったかは覚えていない。

比佐衛は、マウエス移住前、国から満州移民への対応を求められていたが、彼の地の事情がわからず、それよりも、2度の旅行で確認しているブラジル、それも自分の目で確認したマウエスへの教え子の植民をはかるため、分校を設立しようとしたのだと思う。

●マウエスでの生活と帰国

[追記]2012/11/03

国会図書館の「ブラジル移民の100年」中、4章(2)

崎山比佐衛マウエスと入植者」と題する写真について、崎山盛繁、崎山ひろみ、崎山美和子(崎山忍の未亡人)各氏の尽力で、以下のとおり、人物の特定がかなり進んでいる。

なお、崎山・神園・大川などの一族の結束については、ブラジル移民文庫中、山根一眞「アマゾンで日本人はガランチードと呼ばれた」のpp.179-182が詳しい。

マウエスでは、自分はマラリアにかからずに済んだ。

昭和16年、開戦が近いといわれているとき、ブラジルでも青年団は愛国の意思に燃えていて、自分も兵役に服するため日本に戻った

当時は、まだ学校は存続していたが、当時の国策は満州への移民であり、植民学校はそれに対応しない以上、今井氏としても存続をあきらめざるを得なかったのだろう。

自分が軍隊で中国にいるときに廃校になったのだと思う。


0 件のコメント:

コメントを投稿