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■まずは、写真から…

[写真W]2016年1月入手のオリジナルの絵葉書の画像に差し替えた

[写真E]

この学校の設立認可申請書(後記【資料N】)の

「校地附近ノ状況
 土地ハ農村地ニシテ東ハ田畑弐町ヲ隔テヽ東京帝国大學農科大學附屬農園ニ隣シ東南ニ近ク陸軍獣醫學校々舎ヲ望ム
 西ハ世田ケ谷砲兵旅團前ヨリ代々幡村大字幡ヶ谷ニ通ズル府道ニ添フ
 
附近ハ總テ田畑ニシテ四顧武藏野ノ大平野ナリ、唯點々農家ノ散在スルアルノミ
 土地肥沃高燥眺望佳ニシテ空氣清ク教育ノ地トシテハ最モ清浄ノ土地ナリ

との説明どおりの光景である。

ところで、ここから直線距離で1キロと離れていない、現・下北沢成徳学園の、昭和2年の設立認可申請書では、以下のように、学校の適地とする根拠が、180度逆になっている。

「設地區域内二於ケル當該實業ノ状況
抑モ東都ノ地形タルヤ東ニ海アリ南北ニ低湿地ヲ控ヘ居ルヲ以テ今後發展ノ餘地ヲ有スルモノハ西郊ノ地ノミナルハ大都市計畫二於テ新宿澁谷方面ガ大東京ノ中心地ニ位スルヲ見テモ瞭カナリ斯ルガ故ニ大震災ヲ一大轉機トシテ新宿澁谷方面ハ長足ノ發展ヲナシ山ノ手ニ於ケル商業ノ二大中心地トナレル感アリ殊ニ近時新宿通リノ如キハ三越布袋屋ノ二大百貨店ヲ初メ大銀行大會社ノ新築日々共二増加シ正ニ銀座通リヲ凌駕スルノ形勢ニアリ
成徳女子商業學校ノ所在地ハ京王電車笹塚ヨリ約十分明年四月開通スべキ小田原急行電車(新宿小田原間)停留場ヨリ約三分ノ近距離ニ在リ加フルニ郊外商業ノ一大中心地ヲナス澁谷動[ママ]玄坂ヲ距ル徒歩約三四十分ノ地點ニシテ是叉乗合自動車ノ便アリ就中小田原急行電車ハ新宿驛ニテ省線電車卜直接聯絡ノ設備アリテ山ノ手方面ハ勿論下町方面ノ通學者卜雖モ通學時間ハ頗ル短時間ニテ足ル其他市電利用者ハ新宿終鮎ニテ京王叉ハ小田原急行電車二乗換フルコトヲモ得
斯クノ如ク新宿澁谷ノ山ノ手二大中心地ヲ距ル幾何ナラザル交通至便ノ地ニ位スル本校所在地附近ハ高速度ノ發展ヲナシツゝアルニ加へ小田原急行電車ノ開通卜區劃整理ニヨル過剰人員ノ郊外移轉トハ相俟ツテ人口ノ蝟集ヲ促シ商業殷賑ノ地トナルハ火ヲ見ルヨリモ瞭カナリ
是レ該地ニ本校ノ敷地ヲ決定シタル所以ナリ」

これらの写真は、ネットの世界広しといえども、かつて1箇所にしかなく(発見者:米澤邦頼氏)*今でも、ここのページを除くと、このフローリストHANAKOさんのブログ1箇所にしかない。

*よろずや商会絵葉書ギャラリー<http://blogs.yahoo.co.jp/touri7878/18309557.html>で、コメント欄も味のあるものだったのだが、残念なことに、このブログには、現在掲載されていない。
 これだけの写真を、そのまま埋もれさせるのはあまりに惜しく、また、著作権が消滅している写真なので、ここで公開することにした次第である。

【追記】2012/11/03

ここ1年ほど、このページがご縁となって、崎山盛繁氏はじめ崎山比佐衛の縁者の方とお目にかかる機会が増えている。
2012/10/31、比佐衛の「弟」である崎山信義の3女ひろみ」さんと妹の「洋子」さんを、植民学校や植民義塾(後述)の跡地にご案内した折、【写真W】の校舎の前で撮られた、教職員とその家族の集合写真を複写させていただいた。

校舎の前に、足場丸太がある。校舎の竣工直前、大正7年1~3月の写真とも考えられるが、写っている人物から校舎完成後に大規模な修理が行われた時期の可能性もある。
人数が多いので、写真に直接文字を貼り込んでいるが、黄色は、確実~ほぼ確実、橙色は、推定~仮説を示す。

【追記】2010/04/14

当時の「絵はがき」と思われる画像が、もう1枚発見された。



[写真S]

「池ノ上の古老」所蔵
最前列中央が崎山比佐衛。
崎山の右が片野敬之助。
崎山の左から順に、田岡貴義、今井修一、坂本正雄、崎山信義
【追記】2011/12/17
崎山と片野の後ろが酒井市郎。

■ここはどこか?

結論を先にいえば、ここは、

東京都世田谷区代沢2丁目36~39番 あたり

現在の京王井の頭線池ノ上駅の少し南、

・西端は、世田谷区立池之上青少年会館や東京電力池ノ上独身寮のある道路から、

・東端は、溝ケ谷の谷

のブロックである。


大日本帝国陸地測量部 明治42年測図大正10年第2回修正測図
1万分の1地形図 東京近傍18号」抜粋に、写真・記号等補入

つまり、

上の[写真W]が、この学校の敷地の北西端にあった校舎の、南西側の写真


[写真W]の約1世紀後

下の[写真E]が、学校の敷地の、南東方向からの写真

ということになる。

画像や、当時の地形図などの資料などから、どうやら、創立直後の大正6・7年ころに撮影された写真と思われるが(後記【資料J】に掲載されているので、大正9年までの写真であることは確実)、↑のブログに付けられていた「北海道かと思ったら、なんと世田谷だった!」とのタイトルどおり、今からは想像もつかない近郊農村風景である。

それもそのはずで、当時、ここから最も近い鉄道の駅は

・明治40年開通の玉川電氣鐵道の(旧)世田谷*

・大正4年、新宿追分から開通した京王電
軌道の幡ヶ谷**

であり(当時の「植民学園案内」-後記【資料J】所収-による)

・小田原急行鐵道小田原線の下北澤駅の開業が昭和2年4月
・帝都電鐵(現・京王井の頭線)の池ノ上駅の開業は昭和8年8月

バスについても

・北方の三角橋までバスが通じたのが大正9年
・学校西側の道に三角橋・淡島間のバスが開通したのは大正14年
***

のことなので****、この当時は、今なら陸の孤島といってもよい場所だった*****

* 後の、池尻→玉電池尻で、現在の田園都市線・池尻大橋駅西口から50メートルほど西にあった。
  <Google Map 「たまでん」停留所変遷図>

  当時の地図をみると、もう1駅西、現在の三宿交差点のあたりにあった、当時の「池尻駅」(後の「三宿駅」)の方が、直線距離、道程とも近いようだが、迷いやすい行程なので、旧・世田谷駅を示しているのだろう。

** やはり、直線距離では笹塚駅の方が近いが、幡ヶ谷からは、駒場道を南下し、三角橋を右折して道なりに南下すればよいので、迷いにくい。

*** 路線図は、ここの末尾、東横乗合(株)のバス路線図参照。「植民学校前」という停留所があったことがわかる。

**** 詳細はこちら

***** と、いっても、1キロかせいぜい1.5キロであり、当時はもちろん(現に、坂口安吾は、ほぼ同時期の大正14年から翌年まで、京王線代田橋近くの下宿先から、ここよりさらに南の現・代沢小学校まで毎日歩いて通勤していた)、今でも、歩ける、というか、たまに実際に歩く距離ではある。

■どんな学校だったのか?

これが一番肝心なことなのに、実は、その情報が乏しい。

もともと、名前からも想像できるように、植民者を養成するという性格上、学校といっても、近隣の人間が通う学校ではないせいか、地元に遺っている情報は断片的なものに限られているせいである(柳田國男の言い回しを捩っていえば「郷土史の方法では届かない」のである)

しかし、ここ(2010年3月)にきて、資料面で新たな展開があった*ことから、今回、このページを、徐々にではあるが、まとめはじめることにしたわけである。

*さらに、2010年3月26日には「大展開」があった(後述)

■「情報の結晶化」

これは、筆者がよく使う表現である。

一番極端なのは、それまで、相互に脈絡があると考えてもいなかった複数の情報に、新たな情報が1つ加わることによって、突然、その脈絡がはっきりし、「えっ、そういうことだったんだぁ」ということが氷解することである。

しかも、そのことで、まとまった、いわば「情報の核」ができるため、それに、ほかの情報が「ぺたぺた」と自然に貼り付いてくることもある。

まぁ、そこまでドラマティックなのは公私を含めそれほどあることではないにしても、「脈絡があるらしいことはわかるものの、どう脈絡があるのかわからない」ことに、新たな情報によって脈絡が付くことは、しばしばある。

今回、その典型例以上のものだった。


■2010年3月11日までは…

手許にあった資料(但し、地図を除く)といえば、

A:「下北澤通史」(佐藤敏夫/昭和61年3月・刊)

[P.122]「学校」中に

海外殖民学校
創立 大正六年
職員 十一名
生徒 七六名
敷地 四千坪
(出所)区政調査会「世田谷区勢総遺」(昭九)

[P.125]「古老談」中「阿川昌朝氏談 追補 昭和六〇年五月聴取」中に

海外殖民学校は池の上にあり、戦時中に既に廃校になったと思う。

との記事がそれぞれある。

B:「ふるさと世田谷を語る 代田・北沢・代沢・大原・羽根木」世田谷区生活文化部文化課/平成9年3月31日・刊)

[P.188]「鈴木ナオ八四歳 北沢二-九-三)(当時)さんの

今の池ノ上駅の…
近くに海外植民学校という学校があり、そこに日曜学校があってよく行きました。…
七オぐらいから十年ぐらい行っていました。*
外人の牧師さんがいて、とてもいい先生でナオちゃん、ナオちゃんとかわいがってくれました。
行くとキレイなカードを貰ってそれがとても楽しく面白かった。
「葦舟のモーゼ」という劇ではお母さん役で、モーゼを華舟に乗せて川に流す芝居をしました。…

といった談話が掲載されている。

*版の前年、平成8年の話とすれば、ナオさんは、大正2年ころのお生まれで、7才から10年位となると、大正9~昭和5年位までの話ということになる。

【余談ながら…】

このナオさんの、植民学校の話に続く、近所の「遠藤大空(たいくう)」君という、同年代の男の子の話が面白い。
当時希少だった三輪車を持っていて、近所を乗り回して、自分の家の前で「えんどうたいくう おーちまい」、ナオさんの家のところで「なおちゃん おーちまい」と「駅名」を呼び上げていたようであるが、たいくう君によれば、「たかたかじゃんじゃんまーい」というのが、火の見櫓のところだったそうである。

この火の見櫓は、植民学校の西側の道の真向かいにあったらしく(「最新交通指導地図 荏原郡・目黒町」昭和3年2月25日)、また、この本にも写真が掲載されているが(P.109)、

よくみると、「火の見櫓落成記念 昭和二年」とあって、上記のナオさんの年齢と整合しない(まさか、15才にもなるナオお姉ちゃんが、たいくう少年の三輪車遊びにつきあっていたとも考えにくい)。
どうも、火の見櫓は、昭和2年に初めてこの地に建ったわけではなく、高い梯子(「たかたか」)の上に半鐘(「じゃんじゃん」)がぶら下がった江戸時代同然のものが、もともとここにあって、それが、昭和2年になって、写真のような鉄骨造のものに建て替えれられたのではないかと思われる。

C:坂口安吾の自伝的随筆「風と光と二十の私と<青空文庫版:http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/card42615.html

現・代沢小学校の代用教員として赴任*した直後の話として

私は始め学校の近くのこの辺でたった一軒の下宿屋へ住んだが、部屋数がいくつもないので、同宿だ。このへんに海外殖民(しょくみん)の実習的の学校があって、東北の田舎まるだしの農家出の生徒と同宿したが、奇妙な男で、あたたかい御飯は食べない。子供の時から野良仕事で冷飯ばかり食って育ったので、あたたかい御飯はどうしても食べる気にならないと云って、さましてから食っている。ところが、この下宿の娘が二十四五で、二十貫もありそうな大女だが、これが私に猛烈に惚れて、私の部屋へ遊びにきて、まるでもうウワずって、とりのぼせて、呂律(ろれつ)が廻らないような、顔の造作がくずれて目尻がとけるような、身体がそわそわと、全く落付なく喋(しゃべ)ったり、沈黙したり、ニヤニヤ笑ったり、いきなりこの突撃には私も呆気(あっけ)にとられたものだ。そして私の部屋へだけ自分で御飯をたいて、いつもあたたかいのを持ってくるから、同宿の猫舌先生がわが身の宿命を嘆いたものである。

*当時、この学校は、荏原尋常高等小学校(現・世田谷区立若林小学校)の分校であり、若林小の歴代職員名簿によれば、安吾が着任したのは、大正14年3月31日である。

 なお、この下宿屋の当時の位置も、ほぼ特定されている(下北澤町1183)。

 「風と光と二十の私と」については、こちら

D:上記の、ブログ「よろずや商会絵葉書ギャラリ」の記事と写真

E:国立公文書館運営の「アジア歴史資料センター」のデータベース<http://www.jacar.go.jp>中

件名標題(日本語)32.近藤倉吉

階層外務省外交史料館> 外務省記録> 5門 軍事> 1類

国防> 2項 兵役> 本邦人徴兵関係雑纂 第十巻

レファレンスコードB07090081900

外務省からの照会に対し、世田谷町長が、大正15年11月17日、近藤倉吉なる人物(本籍地 東京府荏原郡世田谷町下北澤七十二番地の消息について、海外殖(ママ)民学校長に照会し、ブラジル・サンパウロ市内の現住所について回答を得た

旨、回答している。

F:きむらけん氏のブログ「東京荏原都市物語資料館

http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51114375.html

http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51109371.html

なお、

http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51113126.html

昭和15年秋、2度目に来日したヒトラー・ユーゲントの一行が、11月上旬、この学校を訪れている*

こと。

* 出典は
  「君はヒトラー・ユーゲントを見たか?」中道寿一・著/南窓社1999/12/15・刊
  とのこと。

G:(あえて挙げればであるが)横光利一の小説「睡蓮」<青空文庫版:http://www.aozora.gr.jp/cards/000168/card1103.html>

昭和3年に転居してきた(終焉の地ともなった)、学校西側の道路のやや西奥の自宅付近の当時の光景を題材にした

秋の日の夕暮近いころで、電車を幾つも乗り換え北沢へ着いたときは、野道の茶の花が薄闇(うすやみ)の中に際(きわ)立って白く見えていた。
「ここですよ。どうですかね」
 大工は別に良いところでもないがといった顔つきで、ある高台の平坦な畑の中で立ち停った。見たところ芋の植(うわ)っている平凡な畑だったが、周囲に欅(けやき)や杉の森があり近くに人家のないのが、怒るとき大きな声を出す私には好都合だと思った。腹立たしいときに周囲に気がねして声も出さずにすましていては家に自由のなくなる危険がある。それに一帯の土地の平凡なのが見たときすでに倦(あ)きている落ちつきを心に持たせ、住むにはそれが一番だとひとり定めた。
「どうしますか。お気に入ったら帰りに地主の家へいって交渉してみますが」
「じゃ、ここにしよう」
 こういう話でその土地は地主ともすぐ定められた。そして、その年の暮に家も先(ま)ず建って私たちの一家は移って来た。周囲の景色が平凡なため、あたりの特殊性を観察する私の眼も自然に細かく働くようになった。森に包まれている道も人はあまり通らず、ときどき魚屋が通るほどの寂しさだった…

といった描写がある。

といった、断片的な情報に止まっていた。


■2010年3月12日からの大展開

ところが、ある「きっかけ」があって、2010年3月12日に、

H:「創立五十周年 記念誌 世田谷区立池之上小学校」(世田谷区立池之上小学校創立五十周年記念誌委員会・編/同校々長 平成3年3月・刊)

一種のタイムリミットは翌日に迫るわ、A~Gのほかに新た史料はみつからないわ、で困り果てていたときに、思い出したのは、北沢川文化遺産保存の会のメンバーで、先頃、昭和14・5年に植民学校の校舎の前で撮影された、地区の警防団と東條英機・杉山元との集合写真


(背景が、植民学校校舎)

を発見された、元・区会議員の廣嶋文武先生のことだった。

廣嶋先生は、我が家にいた3代にわたるネコちゃんたちの主治医だった、という御縁に甘えて電話すると、この本に若干の情報があるとのご教示を受けると共に、現物をお借りすることができた。

この本の中で「植民学校」あるいは「植民義塾」(地元ではかなり混用されているが、両者は意味が違う)に言及されている方は幾人かいるが、とくに、その活動ぶりについて一番詳しく伝えているのは、

「思い出」小杉文次郎氏談(pp.63・64)の

当時で思い出深いのは、青少年会館から商店街までの一帯にあった「海外殖民学校」です。北海道や東北地方の二男、三男の人達を集めて、プラジル移民の為の教育をしていました。

崎山比佐衛という土佐出身の校長で、酪農技術だけでなく英語やキリスト教等も勉強し、近所の牧場から集めた牛乳を瓶につめ、各グループにわかれ赤坂方面まで朝食前に配っていました。学生達はとてもよく働き、近所の子供達もそこで開く日曜学校でキリストの話を聞いたり讃美歌を歌ったりしました。

との部分である。

昭和始め大正末頃と思われる時期の崎山(【写真S】より抜粋)

[追記]2011/01/18

この記念誌の中に、北に道をはさんで隣接する池ノ上小学校側から撮影された写真に、殖民学校の校舎が写り込んでいることがわかった。

P.37「体育の学習(17年ごろ)」と題する写真から抜粋

P.43「プール落成式(30年7月)」と題する写真から抜粋
殖民学校校舎北側には、控壁と呼ばれる、耐震・耐風のための壁が設けられていたことがよくわかる

[追記]2011/12/18

不鮮明ながら、【写真E】と同時期の、校舎と牛舎の写真を入手した。

 

戦後の校舎については【文献P】p.10に

一九五六年四月十五日
            :
 一九一七年十一月十八日に殖民學校校舎として定礎せられた建築は二棟が厳として建っている。

とあって、昭和31年までは、残存していたことになる。

一方、池之上小学校の昭和38(1963)年3月の卒業アルバムに掲載されている空中写真(後記の「植民義塾」の建て替え後の姿も写っている)には、もう寄棟の新しい建物の建て替えられている。

筆者が池之上小学校に転校してきたのが、昭和36年4月、通学路と逆の出口とはいえ、ちょうど、プールの向うの裏門を出たところに「金の鳥」(みんな「きんちょー」と呼んでいたが)という文具屋兼駄菓子屋があって、3日に1日は帰りに寄っていたのだが、いくらなんでも、これだけの古い洋館造りの建物があれば印象に残っているはずなのに、それが全くないところからみて、建て替えられたのは昭和30年代前半なのではないかと思われる。

I:「おばあさんの知恵袋」(桑井いね・著/文化出版局 昭和51年12月10日・刊)

さっそく、廣嶋先生からお借りしたHの資料をみると、植民学校について、いくつかのエピソードが載っていたが、一番びっくりしたのは「三 昭和初期の池の上」という項(pp.90・91)に、この本が大幅に引用されていたことである。

この本ならば、続編も含めて我が家の書庫にあり(改めて奥付をみると、30年以上前に買った本だとがわかった)、さっそく、探しだして読んでみると、

いねおばぁさんは、震災後の、大正13年に(p.170「忠犬ハチ公」)下代田(「代田」であることはp.16「はじめまして」「結婚生活」から、pp.92・93「子供のお稽古」で、長男が東京帝大農科大学の農場や実験場で遊んでいたとの話から、わかる)借地に建てた家に目黒から転居してきたこと

大正9年生まれの長女(p.14「はじめまして」「結婚生活」)が、代沢小学校で昭和4年まで教師をしていた崎山比佐衛の娘に習っていたこと(p.160「ブラジル移住」)

とくに、その「ブラジル移住」(PP.159~164)というところには、当時の植民学校の学生との交流が、かなり詳しく書かれていた。

昔、たしか八王子だったかに、朝、予定より早く着き過ぎたので、喫茶店でコーヒーを飲んでいると、NHKラジオが流れていて、市原悦子が、この本を朗読していて、そのときの「渋谷の白十字に、魔法瓶を持ってアイスクリームを買いに行った」という話が印象的だったことから、しばらくたって、書店で見つけ たときに正続あわせて買い、当時は、熱読した本だった。

翌13日には

J:雑誌「植民 VOL.Ⅴ№2(1920年3月号)(海外植民学校出版部 大正9年3月1日刊)

3月13日、某大学院のドクターコースの院生さんからいただいた。

A~Iは、あくまで、地元からみた学校の外面(そとづら)にかかわるものであるのに対し、こちらは学校自身の出版部(当時の所在地は「東京府代々幡町代々木三角橋1250」で、今の三角橋交差点北の富澤輪業さんの北裏にあたる)が出版した「植民學園宣傳號」ということもあって、学則類、カリキュラムや講師陣のリストなど、学校の内情を示す、貴重な資料である。


雑誌「植民」1920年3月号表紙
【写真E】が使われている。
また、最終ページ(p.40)には【写真W】が掲載され「ここに掲げた冩眞は植民學校勞働會の牛乳車であります。ご覽下さい。」との解説が付されている。

の都合3つの史料が突然加わり、一気に、この学校の内容や活動が具体的にわかり始めたのである。


[追記]2010/04/02

今日、以下の資料を入手することができた。

K:「海外植民学校女子部の設立に際して」(今井 修一・著/雑誌「殖民」[日本植民通信社・刊]7巻8号[昭和3年]pp.103・104)

L:「崎山比佐衛と海外植民学校」(間宮國夫・著/『土佐史談』[土佐史談会・刊]232号[2006年]pp.1~11)

M:「崎山比佐衛と聖園農場」(平石元重・著/『土佐史談』[土佐史談会・刊]191号[1993年]pp.107~113)

[追記]2010/04/05

さらに、下記の資料を入手した

N:「設立認可申請書」[大正7年4月7日付け](東京教育史資料大系 第10巻[昭和49年3月20日・東京都教育研究所・篇/刊]pp,807~811)

O:「崎山比佐衛傳 移植民教育とアマゾン開拓の先覺者」吉村繁義・著/海外植民学校交友会・刊[抜粋]

[追記]2012/11/03

ブラジル移民文庫のここ
http://brasiliminbunko.com.br/157.Sakiyama.Hisae.Den.pdf
で、全文のPDFが入手可能(ただし、発行場所は、サン・パウロとなっている)。

以下【資料O:ネット版】という。

下は、その最終ページの写真(当然かもしれないが、上記初版本の後ろ見返しにも掲載されている)

[写真E]の、いわばパノラマ版だが、[写真E]では、(3)の寄宿舎は建築途中で白っぽく骨組がみえていたが、こちらでは竣工している

(1)が、労働会牧場の牛舎(この左に消毒場があった)
(2)が、学校の校舎
(3)が、労働会の寄宿舎
したがって、
(4)(5)が、教職員宿舎
となる。

藤森成吉「旧先生」第2編「七」に、以下のような、大正10年前後と思われる植民学校の描写がある。

「さあ学校へ来た。」
 そう云うと、間もなく先生は垣根をもぐり出して構外へ出て、すぐ先きの赤い色の建物を指して見せた。
「我輩は、ここで学校騒動の張本人になって、その揚句とうとうやめて了うたんじや、その後一遍も来たことがない、誰かいたらお茶位はくれるじやろ。」
 そんなことを云いながら、やがて先生は学校の傍へ行って一軒の小さな平家の前で案内を乞うた、と、その家の妻君らしい中年の女が障子をあけて顔を出した。
「や、暫く、-河北君はいますか。」
 先生は無雑作な調子でたずねた。
「いえ、生憎今日は出かけまして。」
「校長はいますか。」
「いえ、皆さん今日はお出かけで御座います、休暇のあいだは生徒さん達は午前中みんな牛乳のお得意廻りをしているもんですから。先生がたも生徒も……。」
「それは丁度生憎で-じや、あっちの牛舎の方へ行って観せてもらいましょう。」
 先生はまるで自問自答のように云った、そこを離れて学校の建物の方へ歩いて行った。
「今のが校長の甥の、我輩と親密にしとった職員の家じゃ、―この二棟ぱかりが学校でそっちにくっついとるのが附属の畑じゃ。」
 先生は二階建ての、粗末なバラック風の、どの窓も白い窓掛けで閉ざされた、森閑とした建物を前にして私に説明した、それは、どこと云って特徴のない平凡な校舎だった、ただ入口が小さな螺旋形のような恰好になうているのが、せめて特徴と云えば云える位のものだった、あまり広ぐもなさそうな畑にはなぜか一部分にサワラの苗木が沢山植えてあった。
 「こんな物を植えといたんじゃあ仕様がないね。我輩も前にも散々いろいろ忠告を校長にしたんじゃが、ちっともきかんから、とうとう騒動を起して了うたんじや。」
 先生はさも憤慨したように云った。 
 それから私達は、その横手の小さな牛舎の方へ廻って行ったが、そこにもやっぱり誰もいなかった、ただ疲れたような二三人の若者が、隅のペソキの剥げた小舎の畳の上へころがっているだけ、ややよごれた牛小舎の中には、一列につながれた二十頭足らずの牛が頻りにのどかそうに鼻をならしたり蹄で板敷を蹴ったりしているだけだった。
 「あいにく留守で残念じゃったね、じゃがまあ此の辺を見て拝領しておけばそれでいい。この処までは、まだ君のところへ書いて送っておらんじゃったが、これでもここは四年間も我輩が教えたところで、我輩に取っては記念の地じゃ、あんな騒ぎさえ起さなかったら、今でも我輩は茲にいたかも知れん、ここの教員達とも何遍一緒に我輩は八ヶ岳へ行ったかもわからんじゃ、あこの貸し下げも、この学校の方の関係がうまく行きよったら、今頃もっと何とか始末がついていたかも知れん、いや、人間の運命って云うものは、全くただ神の御心にあるもんじゃね。」
 先生は如何にも感慨に満ちて来たように、黒い泥々の地面の向うの柵に沿った、薄紅い花を開いてい&一並びの桜の樹の方を見ながら語った。やがてそこを出て、私達は並んで帰り途についた。
(「北海道文学全集 第5巻」立風書房/昭和55年5月10日・刊 PP.301・302)

この「先生」なる人物については…

【資料O:ネット版】pp.204-208「八ヶ岳分校計画」中

或る日、吉川巌という老人が植民学校に訪ねてきた。強引な要求に動かされ、英語の教師に採用した。大正七年二学期の開始も近い頃のことである。この人は創意はあるが実現力の乏しい風変りな植民狂で、教え子の藤森成吉が創作の中に自分を書いてくれたと喜んでいた。無邪気な爺さんである。諏訪中学校教諭時代に、八ヶ岳山麓の開拓に手を着け、中途で挫け、崎山校長に自分の素志を継いで貰いたかった。もとより何等の私心があったわけではない。彼の熱心な勧誘にこたえて、校長は大正八年暑中休暇を利用し、現地の視察を行った。

 

[追記]2010/05/31

ここまでの追加入手資料は

P:雑誌『植民』6号(1956年)海外植民学校伯国校友会[抜粋]

Q:雑誌『植民』7号(1967年)海外植民学校校友会[抜粋]

R:雑誌『植民』4号(1961年)海外植民学校校友会[抜粋]

S:東京朝日新聞昭和3年9月6日(木)第2面

T:東京朝日新聞昭和3年9月16日(日)第2面

U:「北天録」加藤清光・昭和46年11月30日/編・刊

V:雑誌「ブラジル」第7巻2号(昭和8年2月号)

W:「海外植民学校一覧」昭和9年10月

そのほか、断片的な資料が続々出て来てしまい、ちょっと収拾がつかなくなりつつある。

つい3か月前には想像もつかなかった状態である。


■なぜ「牛乳」なのか

なにより、インパクトの大きいのは、【写真W】の、校舎前に整列した学生たちの牽く荷車の上の箱の「牛乳」の2文字である。

しかし、学生達が、【写真W】下のキャプションのとおり「海外植民学校」の「労働部」の「実習」として、牛乳を売るというか配達をしていたことは疑う余地がないものの、この「労働部」とは何なのか、なぜ、牛乳配達が「実習」なのか、そもそも、この牛乳はどこにいた牛のものなのかなどは、写真からはわからない。

先ごろ入手した資料のうち、【資料H】にも、前記のとおり学生達の牛乳配達についての言及があり、それはそれで、特に昭和になってからの学校の成り立ちについての重要な示唆を含んでいるように思えるのだが、まずは、この学校での「牛乳」の位置付けの輪郭をつかむことのできるのは【資料I】の、桑井いねおばぁさんの、以下のような、お話である。

この学校は、 崎山比佐衛先生とおっしゃる小柄な牧師さんが校長をしておられました。崎 山先生は、 青山学院をお出になってから苦学生のための学生労働会をおつくりになり、 今な ら育英会とか文部省がするべきことを、 個人でしていらしたのだと思います。(p.160)

そして、この「学生労働会」なるものについては、が、その沿革を含めて決定的な資料なので、まずは、校則などからその概要を見て行くことにする。

【学費全般】について

「植民學園案内(p.13下)に以下のような解説がある

二 學費、月謝のほかに下宿費として食料は十五圓、室代は五圓これは最低限である。
入學時當時書籍代五圓内外、學生服五十圓位かゝる。但洋服などは古服を二十圓位で求めることも出来る又別に武術稽古用の品物書籍等が五圓位かゝる。爾後毎月要るものは僅少の書籍文具費と下宿代だけと心得ればよい。

【月謝】について

海外植民學校學則(pp.19~24中p.23上)「第六章 學費」によれば

第二十三條 入學金ハ参圓トス。…
第二十四條 授業料ハ本科一ケ月金四圓、専攻科一ケ月五圓トス(毎年十二月暖房費トシテ金壱圓ヲ懲ス)

第三十五條 本校生徒ニシテ學費ニ乏シキ者ハ本校勞働會ニ於テ學業ノ余暇勞働ニ従事シ自活スルコトヲ得、サレド収容人員ニ限アルヲ以テ別ニ勞働會ノ許可ヲ受ケザル可カラズ但シ勞働會ノ規定ハ別ニ之ヲ定ム

と、ここで35条に「学生労働会」が学則上登場してくる。

そして、この「学生労働会」で「労働に従事」することによって、どのような形で「自活」が可能になったのかを知るには、「別に…定め」られている、学生労働会の会則を見る必要がある

【「勞働会」からの給付】について

海外植民學校勞働會會則(pp.34・35中p.34)の「第二章 業務」をみると

第五條 本會ノ業務ハ牧畜、牛乳販賣、及ビ農園トス
一、會員ノ勞働ハ一日五時間トス
二、牧畜ノ業務ヲ分搾乳、牛舎管理トス
三、牛乳販賣ノ業務ヲ分チテ消毒、並ビニ配乳トス
四、牛乳ノ配乳區域ヲ各組ニ分チ、朝夕二回トシ各組二名(朝一名夕一名)トス、「朝」ノ配乳ハ午前三時ヨリ約四時間、「夕」ノ配乳ハ學校放課後約四時間従事セシム
第六條 本會ノ業務に従事スルコトニ由リ、會員ニハ食ト、住トヲ供給ス猶ホ會員個々ノ必要ニ應ジ、業務ノ難易ト本人ノ技倆ニ従ヒテ其上ニ月謝叉ハ月謝及ビ手当ヲ給ス
(備考)現時東京ニ於ケル一般學生ノ費用ヲ概算スレバ一ケ月部屋代四五圓、食費二十圓、其他月謝、小使、電燈料、炭代等ヲ要スルガ故ニ其所属學校ノ程度ニ従ヒ約三十五圓乃至四十五圓ヲ要ス
第七條 前條ノ如キ関係ナルガ故ニ本會員トシテ勞働ニ従事シツゝ勉學スルモノト雖モ猶ホ家庭ヨリ五圓乃至七圓ノ補助ヲ要スベシ

との規定があり、

労働会に入会が許されれば(定数50名で、審査があった-会則12条-)、まずは、食費と寮費は無料になり、あとは努力次第で、学校の月謝は事実上免除、さらに、手当が支給されて、小遣いというか、書籍や文具代をある程度まかなうことも可能になっていたようである。

第6条の「備考」をみると、植民学校だけでなく、当時の上京して学ぶための必要コストがわかって興味深い。

これをみると、下宿代(部屋代)や授業料(月謝)が、今の感覚からすれば、むしろ意外に安い(書籍も、巻頭近く広告をみると、スペイン語の辞書でも1円、教科書類は40銭とか48銭と、出版部数を考えると割安感がある)のに比べると、食費は20円と高額である。

■【写真E】の意味

一応ここまで、学校の内容がわかってくると、「植民學全景」とのキャプションの書かれた、この写真の意味がわかってくる。

つまり、前記の規則類から、この学校には、授業をするための校舎だけではなく、

・学生労働会の業務のための「牛舎」(規則5条2号)

・同会に入会を許された学生に「食ト、住トヲ供給ス」るための、賄い付きの寄宿舎(規則6条)

もあったはずだということになる*

*また【資料J】のうち

「勞働會の精神と現状」(學生勞働會幹事 今井修一)には

職員の住宅は皆其附近にあつて有機的な關係を持ち職員及び其家族と接し他に見る事の出來ない暖い情の是に通ひつつあるを感ずることが出來るのである」(p.29)

巻末の「植民學園より」という短報欄にも

辻先生は口中を痛められて例の大聲で生徒を励ますべく不自由である で帰って居られますが最早御快方であります。」(p.40)

とあることから、ほかに、近辺に教職員の宿舎があったらしいことがわかる。

次に、これらの規模が問題になるが、

●牛舎

まず牛の数が問題になるのだが、同じ「植民」誌上の記載でも、

「牧場より」農場搾取部主任崎山信義(pp.31~33)では「牝牡牛合せて五十頭」(p.31)

「勞働會の精神と現状」学生労働会幹事今井修一(pp.28~30)では「七拾有餘頭の乳牛」(p.30)

と、やや齟齬があるが、牛が、数10頭を超えていたことには違いなく、いうまでもなく、【写真W】の校舎のほかに、これを収容し、搾乳できる牛舎がなければならない。

そのつもりで、【写真E】をみると、写真の右端に、黒っぽい平屋建ての大きな建物があり、そのあたりを上記の地図でみると、「文」記号の付いた校舎のある「45番地」の南隣の「35番地」に、校舎の3倍ほどの長さの建物が記載されていることから、どうやら、これが当時の(その意味は後日)「牛舎」と考えられる。

なお、乳牛1頭の飼料を、自前でまかなうとすれば、放牧して育てる場合は0.5ヘクタール、放牧せずに牧草を成育・収穫して飼料にする場合でも0.2ヘクタール、の牧草地が必要で<http://www.medianetjapan.com/2/20/government/jangshogun/Dairy14.htm>、学校の敷地4000坪(=1.32ヘクタール【資料A】)では、到底数10頭単位の牛の飼料の調達は不可能である。

したがって、牧草地らしきものが【写真E】に写ってはいるものの、牧草の成育、収穫、飼料への加工の「練習」用に止まらざるを得ない(また、学校のカリキュラムには、本科の3年次(「植民」p.20)と専攻科の2年次(「同p.21)には「農林学」の「実習」が組み込まれているので、そのための敷地も必要である)は外部から購入せざるを得なかったはずで、「植民」p.40の「植民學校から」という記事中にも

「田岡先生[註:実地指導担当]は牛乳が足りなくて心配し、今井先生[註;農林学、実地指導担当]は學生の健康の為に心配し、崎山信義先生[註:畜産、実地指導]は牛の食糧に就て苦心し、片野先生[註:学生労働会常任幹事]は消毒の完全を期して努力せられておられます。」

とある。

[追記]2011/12/11

先日、Yahoo オークションに、初期の牛舎内を撮影したと思われる絵葉書が出品されていたのを見つけた。

残念ながら、オークションが終了後だったため落札できなかったが、小サイズとはいえ、この写真が入手できただけでも幸い考えるべきだろう。

[写真C]

●寄宿舎

この種の施設の待遇については、ここ数十年でも激変しており(40年前は、東京でも、木造モルタル塗2階建てで、3畳1間の下宿なども、さして珍しくはなかった)、大正期の様子を想像するのは難しい。

そこで、一種の類例として、昭和13年に、下北沢の「東京北澤通商店街商業組合」が建設した「店員道場」の平面図をもとに、寄宿舎の規模などを推定をしてみることにする。

この店員道場は、下北沢の商店街が、その店員を寄宿させ教育するための施設であるが、寄宿者の寝室はその2階にあり、平面図から推測すると、

3間×2.5間と、3間×3間の部屋が、各2室あることがわかり、その総計は33坪ということになる。

いくら相部屋でも、1人1坪(定員33名)では当時としてはやや待遇が良すぎる気もする一方、1人1畳(定員66名)では修学旅行の宿屋並みで、いくら戦前といっても長期間の合宿生活の場としては詰め込み過ぎと思われるので、その中間の最大50名程度と考えるのが穏当と思われる

*押入のスペースから考えると、1間幅のものが、合計9箇所あり、片側各3人分の夜具(従って1箇所6人分)とすれば、合計54名分(矩計図を見ると天袋の位置に若干の物入れがあるが、この場合、押入に、各人の私物を柳行李に入れて収納できる。
 一方、トイレについても、大便器が4つ(寮監用は別)で、1人5分として、1箇所1時間で12人、4箇所で48人であるから、ほぼこの観点でも整合する。

 店員道場は居室は全て2階なので、これに廊下・階段で約13坪を要している。

植民学校の寄宿舎の定員も、前記のとおり50名であるから、学生の居室の面積は、同様に、合計30坪程度、廊下・階段ともで、最大45坪程度と考えればよいと思われる。

洋室を想定して、4畳半に蚕棚式の2段ベッドを2台として試算しても、居室には28坪強必要で、大差はない。

賄い付きの寄宿舎である以上、これに加えて、少なくとも、厨房、食堂、洗面所、浴室、脱衣室、トイレは不可欠であり、上記のように同規模と考えられる店員道場の場合、それそれ順に

厨房-----2間×3.5間= 7坪
食堂-----3間×4  間=12坪
洗面所----2間×1.5間= 3坪
浴室-----2間×2.5間= 5坪
脱衣室----2間×1.5間= 3坪
トイレ-----3間×1.5間= 4.5坪

合計34.5坪(店員道場と違い、集会・自習などには校舎を使えばよいので、必ずしも必要ではない)であり、平屋なら階段が不要で廊下も狭くてよいこともあり、合計75坪ほどあれば、十分に50人の学生の食住を賄うことはできることになる。

【写真E】の右端に、既存のやや小振りの建物と、その奥に、建築中の白い骨組みの状態のやや大きな建物が写っているが、これが、その寄宿舎(群)*の、学校が創立された大正6年ころの姿ではないか、と推測している。

「植民」中、「來れ、來れて觀よ植民學園を」海外植民學校講師坂本正雄(pp.25~27中p.25下)によると、

植民學園-これは植民學校と學生勞働會と牧場と出版部とを總稱したる名詞であるが-

とあり、やや離れた三角橋にある出版部は別として、学校の校舎、牧場の牛舎、学生労働会の学生が住む寄宿舎が写り込んでいる【写真E】は、植民学「校」ではなく、まさに、その意味での、植民学「園」の写真なのである。

*ここを、寄宿舎と推定する根拠はもう一つある。
 【資料E】のとおり、大正15年11月17日、世田谷町長は、東京府荏原郡世田谷町下北澤七十二番地に本籍をおく近藤倉吉なる人物の消息について学校に照会し、学校はその消息を把握していたことがわかる。
 この近藤なる人物の、本来の意味での本籍がそこにあるのなら、少なくとも近隣にはあるはずの実家なり縁者に問い合わせるのが通常であり、少なくとも学校に照会するのは不可解といえる。
 この72番地は、ほぼ、上記の学校の寄宿舎らしい位置にあたることからみると(前掲の地図では「75」番地と表示されているが、他の地図類をみると、75番地はもう少し西寄りの道路の近くがそれにあたり、かえって、問題の建物群のあたりを72番地と表示しているものもある-精確を期するなら、いわゆる公図を入手すればよい)、ここに寄宿していた学生が、この場所というか学校に、いわば「籍を預けて」ブラジルに渡航し、そのため、学校側が本人の消息を掌握していたのではないかと考えられる。

[追記]2010/03/26

 後期の「池ノ上の古老」から確証を得た
 と、いっても、寮は校舎のすぐ北の位置にあり、右端の建築中の建物は、東寄りの川近くにあった、積田牧場(南側が住居で、北側が牛舎。そこから東が牛の運動場)ではないか、とのことだった。

積田牧場・跡

[追記]2010/03/27

 「池ノ上の古老」によれば、
【資料J】にある、学生労働会の定員50名と言うのは、いわば誇大宣伝で、寮で寝泊まりできる人数は、せいせい25人位。
・昭和10年代に実際にいた人数は、20人位だったとのことである。

[追記]2010/06/19

【資料O】に、以下のような記述があるのがわかり、ようやく、施設の全貌が具体的にわかりかけてきた。

 (大正6年)ころ世田谷町北沢二丁目(現在帝都線池ノ上停留所付近)は駒場農科大学の裏に当り、渋谷駅から徒歩松濤町を経て大学を迂回するか、玉川電車で三宿に下車し、約一キロ半歩かねはならない不便なところだつたが、そこに個人経営で乳牛七十頭収容能力のある牧場が、牛乳処理の施設一切一括して売物に出たのでこれを買収することにした。付近一帯は畑だつたので、牧場に接近して学校敷地を選定したが、地主が頑として手放さないので、止むなく建築敷地と演習用地として四千坪を借り受けた。岩本組に請け負わした吉田常太郎が建築監督に当ることとなつて新校舎建築工事に着手したのは大正六年九月、落成は翌七年四月末であつた。(P.105)

 これより先き校舎と殆ど同時にその近くに工事を起した寄宿舎は、前年十二月末に落成した。内部は洋式にしてベットを備えつけたハイカラな設計である。麻布牛込から全部の学生が引越し、落成入舎式とクリスマスと年を同じうして挙行Lた。そののち学校落成に前後して、職員住宅の幾棟かが移転或は新築された。こうして海外植民教育会、海外植民学校、学生労働会の三者が一体となつて、民族発展の基地となるべき使命を負つた植民学園が誕生した。(p.106)

 「何れだけの設備が出来たかと申しますと、二千坪の敷地と5000坪の地上権を得て、其上に本校舎の建坪が百八十坪、生徒の牛乳を絞り配達する牧場が建坪二百四十坪、消毒室が二十坪、寄宿舎と住宅が百五十坪で同計六百坪の建物が出来ましたので、目下六十五名の学生が二石の牛乳を配達しながら勉学しておりますので、また学校の方は本年は本科四十名、専攻生三十名だけ収容する準備で、本校で結局百五十人の学生を教育する予定であります。なお之にも実習として勤労せしむる為に農園を設けました。」(P.110)

 植民学校で最も遺憾なことほ、それを有効に体験さすだけの舞台や設備がなかつたことである。僅か一町歩内外の畑を試作したり、測虚実習に用いる程度であり、牧場があつても生徒は牛の予を校庭に引つばり出して面白がる位である。多数の生徒たちが汗を流すほどの労働の場所ほなく、それを毎日体験できるのは、苦学の必要から働く労働部の生徒だけであつた。
 この条件をみたすために八ヶ岳山麓の開拓を計画したのであつたが、それは遂に実現するに至らなかつた。(p.122)

 学園には校舎、寄宿舎の次ぎに地理的に不便を補う必要から校長宅、外三戸の職員住宅を新築した。その進行中に八ケ岳運動
に半歳を要し、次で財界不況で募金は思うに任せず、予定した学校内部の充実を図る財源が漸く涸渇し、維持費も不足し借金で支弁することが起ってきた。(p.136)

【追記】2010/08/31

後掲【資料W】p.10に

大正九年八月三日山梨縣北巨摩郡清里村念場ケ原に於て山梨縣廰より一百四十六町歩の貸付を受く、之が貸付に當りては當時の内相床次竹二郎氏、江原素六翁、長野山梨縣知事の非常なる御配慮を煩はしたるも約一ケ年に亘る地方人の反耐説伏と費用の醸出に財政上影響處多く折角の貸付地も開拓の時期至らすして大正十一年之を返還するの止むなきに至れり。

とある。

なお、この学校の母体であった、財団法人海外植民教育会については、
「大正七年四月末日現在調 東京府管内私立学校並教育法人一覧」(東京府學事兵事課・刊)によれば、以下のとおりである(p.64?)

名稱:海外植民教育會

財團社團ノ別:財

設立年月日」大正七、一二、二七

所在地:荏原郡世田ケ谷町下北澤六二 *

目的:
一、海外發展叉ハ實地視察ヲセントスル優良青年教育家及適當ナル事業家ノ渡航奨勵励叉ハ其ノ補助
二、學校及寄宿舎ノ設置若クハ補助
三、雑誌ノ發行海外事情ノ研究若ハ其ノ補助
四、海外同胞ノ教育ニ関スル後援若クハ其補助
五、農園、牧畜、植林等海外植民ニ必要ナル實習場ノ設置補助
六、講演講習會開催若クハ補助
七、其ノ他理事會ニ於テ必要ト認メタル各種ノ事業

理事長叉ハ代表者:-

*「下北澤町62」は、校舎のはるか東、溝ケ谷の崖の縁のあたりであり、当時の地図をみても、このあたりに建物があった形跡はみられない。
 おそらく誤植と思われる

一方、当の学校については、同書の38ページに

校名:海外植民学校

所在地;荏原郡世田ケ谷町下北澤三四 **

設立認可年月日:大正七、六、三

設立者:崎山比左衛

校長若ハ代表者:同上

とあって、「学校」の方に海外植民教育会との関連を示す記載はなく、 上記のとおり、教育会の方にも、この学校との関連を示す記述はない。

いわゆる名士が「ぞろぞろ」いる教育会との関連が解る方が 学校にとって有利であるし、また教育会にとっても、理念を現に実践していることがわかる方がよいかと思うのだが、何か深いわけでも あったのだろうか。

**こちらも、なんとも奇妙なことに、校舎ではなく、その南の「牛小屋」のあたりである。


■3月26日の大展開(最終期の植民学校)

2010年3月26日、毎年北沢川緑道の桜の開花にあわせて行なわれる、北沢川文化遺産保存の会の、地図の配付に、例年どおり、お手伝いに行った。

残念ながら、花見にはまだまだの開花状況だったが、幸い、昭和1桁のころから池ノ上に在住されている方(お名前を教えていただけなかったので、ここでは「池ノ上の古老」と呼ばせていただくことにする)から、昭和期の植民学校についての、貴重な話を、それこそ、予備知識はあっても、なお頭で消化しきれないほど、たっぷりと伺うことができた。

きむらけん先生(向側)に語る「池ノ上の古老」(手前)

このお話については、いずれ、追加資料を含めて、別に独立したページを設ける必要があると思うが、とりあえず、柳田國男の言い回しを藉りれば「感じたるままに書いた」聴書きをここに置いておくことにする。

なお「池ノ上の古老」は、こちらの記憶に間違いがなければ、昭和ころ9月のお生まれのようなので(6才下の弟さんが、昭和15年創立の池之上小学校に入学されたとのこと-ご本人は代澤小学校ご出身-なので、この観点からも大きな間違いはないはず時代が整合する、そうなると、いわゆる物心ついたのは、昭和8年ころ。

したがって、昭和年ころ、創立者で初代の校長の崎山がブラジルに渡航後*の話であることに留意する必要がある。

*ブラジル・マウエスに入植した。

(1)その時期については諸説あるようだが、ここ

 <http://www.ndl.go.jp/brasil/data/R/G005/G005-0001r.html
 の昭和7年というのが最も正確なようである。

(2)昭和5年の、マウエスへの先発隊と、崎山の長男一家の消息については

 <http://groups.yahoo.co.jp/group/watasitatino40nen/message/5646?expand=1

(3)渡航先の、ブラジル・マウエスと崎山については、

 <http://www.spshimbun.com.br/content.cfm?DO_N_ID=31997> (1)
 <http://www.spshimbun.com.br/content.cfm?DO_N_ID=32032> (2)
 <http://www.spshimbun.com.br/content.cfm?DO_N_ID=32051(3)
 <http://www.spshimbun.com.br/content.cfm?DO_N_ID=32064(4)

 <http://www.spshimbun.com.br/content.cfm?DO_N_ID=32103> (5) 
 <http://www.spshimbun.com.br/content.cfm?DO_N_ID=32126> (6)
 <http://www.spshimbun.com.br/content.cfm?DO_N_ID=32132> (終)

 加えて… http://www.ndl.go.jp/brasil/index.html 中の

   http://www.ndl.go.jp/brasil/s4/s4_2.html


■「池ノ上の古老」よりの聴書き
         於:2010年3月27・
28日 於:北沢川緑道など 

自分が知っているころの校長は「今井」*という人だった。

*学校の農林學、實地指導の講師、労働会の常任幹事の今井 修一か?

フィリピン独立運動の闘士で、日本に亡命してきていたリカルテ将軍*という人がスペイン語を教えていた。

将軍は、フィリピンが独立したとき、本国に戻った。

*アルテミオ・リカルテ(Artemio Ricarte)
 <http://www.jaas.or.jp/pdf/54-1/62-77.pdf>


植民義塾玄関前
「池ノ上の古老」所蔵写真

*リカルテが帰比したのは、この
<
http://chinachips.fc2web.com/repo4/047108.html>
サイトによると
・日本軍のルソン島確保後
・マニラ陥落前
らしいので、WikiPediaによると
 昭和16年12月はじめから翌年1月はじめ、ということになる。

*【資料O】によると

「大正七年八月比島独立運動の志士で日本に亡命していたアルテミオ・リカルテ将軍が、海外植民学校のスペイン語、英語の講師として就任した。…爾来閉校の日まで勤続教鞭をとつて、生徒の尊敬を一身にあつめていた将軍は、大東亜戦争となり、比島が日本軍のために陥落すると同時に苦節四十年にして祖国に還る日を迎え、校友太田兼四郎副官として将軍と行動を共にした。」(p.209)

とあり、植民学校の閉校時期は、ヒトラーユーゲントが訪れた昭和15年11月以降かつ昭和16年12月はじめ以前ということになる。

【追記】2010/05/08

詳細は後日のこととして、この写真が撮影されたのは、昭和18年暮から19年始めにかけて、将軍が、日本に、いわば「凱旋」した時期らしいことが判明した。

【追記】2010/11/06

「フィリピンにおける日本軍政の一考察」池端雪浦
http://www.shachi.co.jp/jaas/22-02/22-02-02.pdf

によれば、リカルテ将軍が、

・フィリピンに帰国したのは、昭和16年12月18日(p.44)
・途中一時来日したのは、 昭和18年12月31日から4ケ月間(p.56)

とされている。h

同書によると、この一時来日は、到底「凱旋」とは言い難いようである。

これらの経緯の詳細は、フィリピンに副官として同道した、植民学校の教え子の

「鬼哭」太田兼四郎
http://repository.tufs.ac.jp/handle/10108/18017

に詳しいようである。

【追記】2013/07/19

その蛇、リカルテ将軍については

星条旗の下の祖国を拒否した男─アルテミオ・リカルテ

も参照

 

地方の2、3男が多く入学しており、牛乳配達をして学資をかせいでいた。 

中には、2、3男といっても、裕福な家の子供もおり、彼らは、働くことはなく、勉強だけしていて、働く学生のための賄い付きの寮とは別に、学校の敷地の南に彼らのための寮があった。

戦後、当時の働く学生の実家で伊那の温田(ぬくた)というところに遊びに行ったが(当時、鉄道省*にいたので、汽車賃は無料だったため、昔縁のあったところへ気軽に行けた)、山の高いところにある家で、あそこなら、2,3男だけでなく長男でも、どこかに出ざるをえなかっただろう。

この温田の人は、学校を卒業したときは、もう海外渡航ができない状況になっており、軍隊に行って復員後、大学を出て学校の先生になったそうだが、その後の消息は知らない。

*戦後の話なので、正確には「国鉄」と思われる


義理の兄(2番目の姉の夫)が、ここを出て、アルゼンチンに移住したが、戦争が始まると、独身者だったので、日本に送還されてしまった。

一番上の姉は夫と2人でブラジルに移民したが、そういった人達は送還は免れたものの、収容所に入れられたそうである。*

*<http://www.ndl.go.jp/brasil/s4/s4_2.html>中「戦時中のアカラ植民地」参照

戦争が始まると、移民どころではなくなってしまい、昭和16年ころには学校は閉鎖になった。 *

*【資料F】によれば、昭和15年11月の時点では、外国からの使節の見学に耐える程度の「態」をなしていたらしいことになる。
 しかし、国際協力事業団「海外移住統計」(1994/10。【資料L】p.1第1表)によれば、たとえば、ブラジルへの移民者は、1931~35年の年平均約14500人をピークにして、36~40年は年平均約3100人に、日米開戦の1941年(「年度」単位と考えても12月8日の開戦まで8か月ある)には約1300人と激減している。

【追記】2010/08/31

原典未確認ながら

「歴史と人物 Issues 10-12」 p.225 中央公論社, 1975年・刊に 

昭和7年春、海外植民学校は閉校した。大正五年創立以来、十六年に及ぶ万民共和の移民教育センタ Iーはここに幕をとじ、日本はどす黒い蛾争の淵へずるずると引きこまれていったのである。

との記述があるようであるが、校長の崎山の渡伯と、学校自体の閉校とを混同していると思われる。

(戦後?)学校の敷地の西の道路側を(元?)地主の阿川さんに返し、奥の土地を学校がもらったが*(その後、農地解放があって、この辺が大きくかわった)、ほどなく東電に売ってしまった。

*ただし、【資料N】等によると、少なくとも、校舎を中心とする1600坪程度(41間角)の範囲の土地については、6,332円で購入することになっている

ただ、学校が無くなったからといって、郷里に帰るわけにもゆかない学生は、寄宿舎に住んで、牛乳を配達して生活していた。

学校は植民学校だが、働く学生の住む寄宿舎の方は、植民義塾*と呼ばれていた。

*2010年4月27日。練馬区石神井で「出土」した「植民義塾」とのエンボスのある牛乳瓶(容量1合)の画像が、ネットに出現した。

http://www.toko-ex.com/blog/diaries/view/49

http://www.toko-ex.com/blog/diaries/view/53

学生労働会が「植民義塾」に組織変更されたのは大正12年ころ。一方「池ノ上の古老」が牛乳を配達しはじめた昭和15年ころには、もう、森永の普通の広口で紙の蓋の瓶だったそうなので、この「植民義塾ブランド」の瓶か使われたのは、長くても10数年位ということになる。

土曜日は「労働の日」といって、寄宿舎の掃除をしたり、少しだけあった畑の手入れをしたりして過ごし、3時にはもち菓子をおやつに食べ、夜は、ほぼ必ず「すき焼き」をした。

賄いの食事の材料は、近所のお店から買っていた。

肉は自分の親類筋のお店から買っていたが、そのころはもう、近所に結構商店は多くなっていた。

片野という先生*が、寮の北東隅にあった寮長室に住み込んで最後まで学生の面倒を見ていた。

 *労働会の常任幹事の片野 敬之助か?

片野先生は写真が趣味で、学生の写真を撮ったり、私や家族の写真も撮ってくれ、今でも、その写真は大分整理したが残っているし、ガラスの乾板も2枚持っている。

奥さんを早く亡くされたのか、独身で、お嬢さんが2人いた。

ご長女の「しも」ちゃんの婿さんはHといって、今でも、子孫が義塾のあったあたりに住んでいる。

片野先生のお墓は、つい先日まで森厳寺にあって、上に校章(「抱き茗荷」の中央上に縦書きで「植民」と書かれている)掘られプレートがはめ込まれた大理石の大きな立派な墓だった。


校章(リボン付きローレルに「植民」だった)
「池ノ上の古老」所蔵写真より抜粋

墓石は、先日、森厳寺が、山*や墓地を取り払ったときに無くなり、プレートは今はどこにあるかわからない。

*富士塚のこと

原典未確認ながら「特別展 社寺参詣と代参講」の図録(世田谷区郷土資料館・平成4年10月20日・刊)のp.10に

 …文政4年(1821)に、三軒茶屋山吉講の新兵衛が願主となって淡島森厳寺の境内に冨士塚を造立している。この冨士塚はもともと同寺にあった鍋島山と呼ばれる筑山に盛土して築き上げたもので、見苦しくない様、その手入れ方を山吉講中が下北沢村名主・半蔵に約している。
 また、この冨士塚については上野毛名主・田中幾太郎も「淡島へ参詣坪并森厳寺新冨士へ上り遠見いたし申し候。」と「御用状留記」文政4年8月の条に書き記している。

 との記述がある

また、 「森厳寺富士塚 世田谷区代沢3丁目27番の発掘記録」森厳寺富士塚調査会・編/世田谷区教育委員会・平成19年3月30日・刊のp.18には

世田谷の富士塚に関する古文書は、『世田谷下北沢森厳寺境内築山修築につき一札』(渋谷区教育委員会蔵)がある。これは、文政4(1821)年に三軒茶屋山吉講の新兵衛が願主となって淡島森厳寺境内に造立した富士塚について、この富士塚は元々同寺にあった鍋島山と呼ばれる築山に盛土して築き上げたもので、見苦しくならないように手入れ方を山吉講中が下北沢村名主半蔵に頼むという内容である。また、上野毛村名主・田中幾太郎も「淡島へ参詣井森厳寺新富士へ登り遠見いたし申候、」(『御用状留書』文政4年8月の条)と書き記している。

と、あるが、前段の話が、両者で全く逆なのはなぜだろう。

【追記】2010/08/19

<http://rakugo-fan.at.webry.info/201006/article_2.html>によれば、
文化11(1813)年3月ここを訪れた十方庵敬順の『遊歴雑記初篇』に、以下のような件がある由

武州瀬田がや領北沢村淡嶋大明神といふは、中渋谷道元坂の上、石地蔵より右へ入て弐拾余町、台座村といふより八町といえり、寺を森厳寺と号し、当時の住持は灸点に感応せしとて、毎月三・八の日は未明より日終<ひねもす>灸点を施し、淡嶋明神より夢想の告によりて名灸の治法を得たりとかや、…一切諸症の煩ひに甚よしと、いひ広めるが故に、諸人これを信じて、三・八の日は山をなして群集しつゝ、施点に預らんが為に、繁々に来る人は講中と号し、一番より五十番までは札を除置もらひて灸点にあふ事となん、依之振がゝりに来る人は、夜を籠て三・八の日は早朝にいたるといへども、人先の施点にあふ事はなりがたく、朝より暮に及ぶ迄、番数三百有余に満るは儘ある事とかや、…
 扨、淡嶋明神の祠は南の垣根通の土手際にあるに、甲斐なき板囲ひの纔壱間四方のほこらの内にすえ置ぬ、
灸点の噂さは広けれども、社壇の狭く麁抹なるには、又、目を驚せり、
 
此神の霊告によりて、斯寺の繁栄する事なれば、崇敬の仕様、模様もあらんに、番小屋の如く、いぶせきありさまは笑止いふ斗<ばかり>なし、…

「肝心なもの」を疎略に扱うのは、この寺の「伝統」なのだろうか?


学生がほとんどいなくなった後、牛乳は、残った学生のほか、自分のような子供が配達をしていた。

配達区域は、北は、立正佼成会のさらに北、中野駅の近くまで、東は、中目黒の方まで配っていた*

*そのためか、中目黒あたりまでの三田用水の流路は正確に掌握されていた

西や南の方はよくわからないが、松涛の方にも配達していたと思う。

配達先は、クリスチャンのお家が多く、学校や義塾への援助をかねて、牛乳を取っていてくれた。

配っていた牛乳は、今でも売っている広口で紙のキャップの森永牛乳だった。

当時も、学校に牛がいたが、といっても5,6頭程度だったか、絞ったミルクをミルク缶に入れたのを森永の工場から引き取りにきて、森永の工場で加工・瓶詰めしたものが配送されてきたのでそれを配達していた。

近所にあった、積田牧場の生乳も一旦義塾に持ってきて、一緒に出荷していた。

【参考】池ノ上近辺にあった牧場


「A.M.S. L902 TYPE F(AMS 1),1946/JAPAN CITY PLANS TOKYOAND ENVIRONS,SHEET 11 SETAGAYA」
<http://www.lib.utexas.edu/maps/ams/japan_city_plans/txu-oclc-6549645-11.jpg>抜粋に補入
D が、海外植民学校
C が、積田牧場
H が、大正終わり頃まであったツツミ(堤?)牧場
その他、A B、E、F、Gにも牧場があった旨の記録がある(Xは「馬の牧場」)
詳細は、こちら

もともとは、学校で、絞った牛乳に消毒(註:今でいう「殺菌」)などの加工をして売っており、そのための消毒場の建物も学校の中に牛舎の北側に接してあったが、衛生上の理由とかでそれができなくなり、森永の牛乳を扱うようになった。*

*米澤邦頼氏からの情報によると、目黒区の田道(でんどう)に、研究所を兼ねた工場があったらしい。

消毒場は、最後は倉庫になってしまっていた。

植民学校の学生は、【写真W】のような荷車を使ったが、自分のような子供は、布の袋に20本位ずつ牛乳を入れてハンドルの左右にぶら下げて運んだ。

雨や雪のときには、よく瓶を割ってしまい、そのときは、又、学校に取りに戻らなければならず、(自分の)学校に遅れてしまった。

子供が牛乳瓶をたくさん運んでいて、傍目では、配っているのか盗んでいるのかわからないので、「配達員」の身分証明書を持っていた(そういえば、学生のおやつのお菓子を買いに50銭の硬貨を持ってお使いに行ったら、怪しまれて警察を呼ばれたこともある)

そのうち、牛はいなくなり、義塾では、残飯で豚を飼い、太らせてから屠場に持ってゆくようになった。


先生方が亡くなったときは、富士見ケ丘教会など近所の教会で葬式をした。

ほとんどの方がクリスチャンで、学校もクリスチャンの人達の寄附で支えられていた。

学校でも、礼拝や日曜学校はしていたが、校内に教会というものはなかったので、講堂などでしていたと思う。


「池ノ上の古老」からうかがった、当時の植民学校の校内*

*南東の「女子寮」と、南の「教室」について

【資料K】、つまり「殖民」(日本植民通信社が、大正11年ころ創刊した雑誌で、同社は上智大学と関連が深い出版社であり海外殖民学校出版部発行の「殖民」-昭和期に同校が発行していた雑誌は「開拓」あるいは「開拓者」という誌名らしい-との関連はないようである:以上、某大学院の院生さんからの情報)7巻8号(昭和3年)pp.103・104

「海外植民学校女子部の設立に際して」
     今井 修一/著」

との、後の校長と思われる今井が「主事」の肩書で執筆しているこの記事(書誌情報は
<http://www.lib.city.wakayama.wakayama.jp/wkclib_doc/imin/framepage-shokumin.htm>
から、「7巻8号」を選択)によると、

入学資格は、原則として女学校卒業者

加えて「高等小學卒業若干名(其の他聴講生として入學出來る事)」との記述がある。

但し、従来の、いわば男子部でも、学則上は、その12条で、
特ニ聽講生トシテ女子ノ出席ヲ許ス(但シ特別ノ紹介アル者ニ限ル…)
としており(【資料J】p.22)、女子を聴講生として受け入れることは可能だった
*

*【資料N】の、認可申請時に提出された学則には、この種の規定はない。

修業年限は、1年間(入學無試驗 選衡あり)

スペイン語科とポルトガル語科があり、外国語を除く両科の授業内容は同一で、
「修身(禮法聖書)、農業、植民学、植民地理歴史、海外事情、ミシン裁縫、料理、洗濯、
實習、衛生音楽(随時)」

の科目があったようである。

大正9年当時なかった(【資料J】pp.18~21)ポルトガル語の講義があること(記事中で、ブラジルだけでも2000人と推定している「『結婚適齢期の植民者』の妻」を養成することが目的だったらしい女子部に、ポルトガル語の講義があることから、この時点では、本来なら、男子部にもあったはずである)。

【追記】2010/08/02

ただし、某院生さんの、今日までの文献調査の結果でも、「ポルトガル語」専門の教師がいた記録は発見できていないし、このことは、池ノ上の古老の記憶とも一致している。

現段階までの資料をみるかぎり、植民学校にせよ海外植民塾にせよ、期待されていたのは外国語(とくに、ポルトガル語、次いでスペイン語)の、実用とくに「会話」教育だったように思える。

しかし、そもそも、この学校の設立当時は、スペイン語ですら、外国語学校(現・東京外語大)の講座がようやくできた頃、つまりは、いわゆる「語学」としての系統だった教育が始まったばかりで、ポルトガル語に至ってはその時期すらまだ不祥である。

まして「会話」教育となると、今現在ですら、言語数は限られているのだから、まして、当時、とくにポルトガル語とスペイン語については、一般的な教育内容と、海外雄飛、つまりは「行ってすぐ役に立つ」語学教育を求めるニーズとの間には齟齬があったように思われる。

海外植民学校に限らず、植民教育機関は、このニッチを埋める機能を果たしていた可能性が高い。

その意味で、とくに、大正中期から開戦までの間の 「語学」についての教育史 とりわけ「会話」についての教育史 (とくに、当時としては「非常に敷居の高かった『大学』」以外でのそれ) について、チェックしておく必要がありそうである。

【追記】2013/Ⅵ/07

崎山盛繁さんのお話により、リカルテがポルトガル語も教えていたほか、児玉というポルトガル語の教師もいたことがわかった。

「院生さん」の調査によると、児玉甚右衛門という人らしい。

雑誌『植民』2号(1957年)海外植民学校校友会p.9の、児玉甚右衛門「わが道を顧みて」によれば、1924年にブラジル移住し、1931年に帰国しているようで、そのポルトガル語は堪能なはずだし、盛繁さんの上京と時期的にも整合している(なお、この執筆当時、日本カトリック移住協議会が連絡先となっている。)

 

一方、大正9年当時あった(前同)英語の授業は、大正14年のアメリカの排日移民法のためと思われるが、消滅している。

この記事の書かれた昭和3年の8月末に、この女子部の校舎と寄宿舎が完成予定であったこと(資金は「篤志家の寄附」)*

などがわかる。

*【史料O】によれば、この篤志家は「森村組重役の村井保国翁」(p.209)

【追記】2010/08/02

正確には「「村井保固」(むらい やすかた)。
愛媛県出身とのことで、愛媛県史 社会経済 第5巻p.473
(原典未確認)に

「海外植民学校補助 海外植民学校(東京市世田谷区北沢.崎山比佐衛校長)に、昭和三年、三万四一〇? 円を寄付、女子部を開設、校舎五三坪、寄宿舍ー四坪。男子部にも、牛乳搾取配達業の設備改善費一二、二〇〇 円寄付する。」

との記述があるらしい

ところで、某院生さんから頂戴した当時の東京朝日新聞の記事によれば、この昭和3年というのは、この年の9月に、警視庁の臨検の結果「植民義塾」ブランドの牛乳瓶1本に「数千匹のダニ」が検出され「飼料場洗場、さく取場、糧まつ場等判然と区別すべく改善を命ぜ」られた時期である。

【追記】2013/06/07

愛媛県生涯学習センター中の、愛媛県史の該当ページ

本件の渡米先駆者→村井保固の条に

「○海外植民学校補助
  海外植民学校(東京市世田谷区北沢・崎山比佐衛校長)に、昭和三年、三万四一〇円を寄付、女子部を開設、校舎五三坪、寄宿舎一四坪。男子部にも、牛乳搾取配達業の設備改善費三、二〇〇円寄付する。」

とあった。

【追記】2012/08/13

神戸大学図書館新聞記事文庫中の
時事新報 1916.3.29-1916.10.6(大正5)
時事新報社第三回調査全国五拾万円以上資産家

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00797596&TYPE=HTML_FILE&POS=1

によれば

財産見積額 氏名 職業 住所
七十万円 村井保固 (雑貨商) 米国紐育

財産種別 有価証券
略歴 安政元年生れにして夙に慶応義塾に学び明治十三年故福澤先生の推挙に依り森村組に入り数年ならずして米国支店の経営に当り爾来常に枢要の地位に在りて店務を鞅掌せるが殊に同三十二年森村翁の令弟豊氏の歿後は全然同店を双肩に担いて立ち事実上の頭取として事業の発展に尽瘁しつつありて太平洋を横断する事も前後七十回の多きに達せりと云う

 前記のとおり、通常の下宿で、食費が月額15円程度必要だった(【資料J】p.13下)にに対し、実際の寮費が食費ともで、後記のとおり、わすか2円だった(【資料V】p.31)ことから、村井は、運営費についても、年間数1000円単位の援助をしていたようである。

【追記】2010/08/31

【資料W】P.13とP.27によれば

・年間授業料24円(同じ修業年限1年の男子部専攻科は70円)
・(寄宿舎の)舎費は徴収せず食費寮費の半額を支給す
・月拾圓内外の経費にで十分なり

とある

【追記】2010/05/21

「古老」が物心付いたころの植民学校全景(↑の火の見櫓からの撮影と思われる
【資料V】p.30より

この写真、海外植民学校の案内書のような出版物に掲載されていたものを転載したらしく、拡大してよく見ると各建物の屋根に数字が手書きで描き込まれている。
以下は、その分析結果

1:本校舎
         【写真W】参照。ただし、2階の外壁は、比較的早い段階で黒っぽく塗り替えられている
2:女子部校舎
    【資料V】のキャプションでは、ここが女子部の寄宿舎となっているが、寄宿舎と同時期に建築された校舎
(53坪:上記愛媛県史)と思われる(3の解説参照)
3:女子部寄宿舎
    「池ノ上の古老」やその知人の記憶では、こちらが寄宿舎(14坪:前同)
   寄宿舎と校舎を寄贈した「篤志家」の援助のおかげか、この時期、食費を含む寮費は月たったの2円だったようである
4:植民義塾
   この時点では、片野敬之助が運営していた
5:牛舎か?
   その左のやや大きな屋根が「消毒場」か?
6:(崎山)校長宿舎か?
   【写真E】の右端の四角錐の屋根が、諸資料からみて崎山校長の宿舎らしいが、そのあたりにあたる
   ただし、崎山渡伯後の、主事あるいは校長事務取扱となった今井修の宿舎は学校の敷地の北東隅、ちょうど5の奥にあったらしい

【資料W】の冒頭の口絵に、全く同じ写真があった。
その解説によると
1 男子部校舎
2 女子部校舎
3 男子部宿舎(上の写真の4)
4 女子部宿舎(上の写真の3)
5 職員住宅(同上ではやや位置が違う)
6 物置


「池ノ上の古老」からうかがった、植民「義塾」(学生労働会寄宿舎)の配置図

【追記】2010/08/31
[古老談]北西の消毒室には、牛乳瓶保存用の冷蔵庫があったという

上の図でふれている「池之上小学校」の松の木

【追記】2010/08/31
北西の消毒室には、牛乳瓶保存用の冷蔵庫があったという

【追記】2010/08/31
【資料W】pp.29・30の「財産目録」によれば、不動産のみをあげると

敷地                4180坪(借地)
校舎1棟住宅付  154坪
女子部校舎1棟  103坪
寄宿舎1棟住宅付  81坪
女子部寄宿舎1棟  27坪5号
住宅2棟        50坪
営業部建物及物置  50坪

アマゾーナス州マウエス農場 1000町歩

【追記】2010/10/15

大正の終わり頃、若者の間で、以下のような唄が流行したという。


一、見渡す野辺の白雲は
  アルゼンチンの大平野
  私の牧場は恥ずかしや
  たった羊が五万頭
二、アマゾン河は幾千里
  岸を覆って昼暗く
  森の彼方に響くのは
  日本男子の斧の音
三、アンデス山は幾百里
  カカオの実も生りや金も生る
  俺も一個の男子なりや
  こんな小島にゃいられない

「幼少期の追憶」百崎重夫・著(「中標津文芸」16巻・pp.105~111)


【追記】2011/01/24

ネット・オークションで、偶然、海外植民学校の校章付きの短冊を見つけたので落札した。


海老沢兄の卆業を祝して

南米に移し植えなん山櫻
 花ぞ咲かまし愛と満古と乃

辛巳 昭十六       祥州

と読める。

短冊上部の校章は、裏を見ると、インクの油の滲みだしたような跡があることなどから、予め印刷してあったらしいことが解る。

作者の「祥州」は、学校の創立時から閉校まで在席し、スペイン語の講師として、教育だけでなく学校の維持のためにも貢献したといわれる、酒井市郎*の雅号である。

したがって、この短冊は、昭和16年に学校を卒業した海老沢某**に対し、恒例に従って1首贈った際のものらしい。

我が国で初めて、西日語辞書を作った<http://www.u-keiai.ac.jp/issn/menu/ronbun/no6/127-152.pdf>ほか、小説も書いたという多才な人物らしい

** この年の12月が真珠湾攻撃であり、おそらく最後の卒業生の一人と思われる


■海外植民学校の顛末

これまで集まってきた史料に基づいて、海外植民学校の顛末を こちら にまとめてみました。

学校閉校の日時は、正確にはまだ判明していませんが、おそらく

昭和16年3月の卒業生を送り出した直後

または

昭和16年12月の真珠湾攻撃の直後

戦前最後のブラジル移民船は、「ぶえのすあいれす丸」で、昭和16年6月2日神戸出港、同年8月13日サントス入港

「ブラジル日本移民八〇年史(1)」移民八〇年史編纂委員会(pp.280・382)

と思われます。


■崎山盛繁氏インタビュー

平成24年9月13日、かねてからに懸案だった、崎山比佐衛の甥で、ブラジル、アマゾナス州、マウエスへの移住に同行した崎山盛繁氏のお話をうかがうことがきました。

その結果は こちら で。

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