2016年7月7日木曜日

原稿「池ノ上の私立海外植民学校」


「北沢川文化遺産保存の会」
の、会報 第113号(2015年12月1日発行)のために書いた記事です。


池ノ上の私立海外植民学校                 きむらたかし




大正7年、ただ畑と林が広がるばかりだった池ノ上の高台、今の池之上小学校の南隣、青少年会館の所に、小さいがハイカラな2階建ての建物が建った。海外植民学校。設立したのは、高知から北海道に開拓民として移住し、その後仙台を経て上京後、青山学院で神学を学んだ、崎山比佐衛〔ひさえ〕という人物である。

 崎山は、青山学院在学中、牛乳の販売で生活費と学資を稼ぐ自らと同じ境遇の「苦学生」と呼ばれていた学生を会員とし、牧場で乳牛を飼い、その牛乳を殺菌・瓶詰めして、会員が配達する「青山学生労働会」を設立。「牛乳屋のおやじ」を自認していたが、大正初期の不況下での会員の就職難の打開の活路を海外移住に見いだそうと、大正3年から丸々2年間南北アメリカ大陸を視察した。

当時海外に渡る日本人の多くは「出稼ぎ」意識を脱却できず、条件のよい仕事先を渡り歩くだけの者も多かった。崎山は、その意識改革に加えて、移民先の労働現場での指導・監督者である「ボッス」の良否が移民たちのその後の境遇を大きく左右することから、「良きボッス」を養成する必要性を痛感し、帰国後、澁澤榮一、後藤新平、大隈重信といった当時の錚々たる政財界の指導者の支援を得て、いわば「『移民の中の士官』学校」を設立したのである。

しかし、この学校、開校後は苦難の道を歩むことになる。開校までの第一次大戦による好況から、開校に前後して、一転して世界的な大不況となったため予定通りの資金が集まず、それが遠因の一つとなった大正1011年の学生のストを契機に、多くの後援者を失ったうえ、今のNHKの社宅の場所にあった学校の原点ともいえる牧場も人手にわたるなど大幅な規模の縮小に迫られた。

この学校は、もともと、他の学校と違って、授業料の収入よりも、有志からの寄附金や、青山学生労働会の後身の「学生労働会」(後には「植民義塾」)による牛乳販売の収益(後には、国からの補助金が加わった)に依存する経営態勢だったことが、おそらく男女あわせて1000人近い卒業生をブラジルなど諸外国に送り出しながらも、最後の最後まで崎山も自認していた「貧乏学校」から脱却できなかった要因であった。

海外植民学校は、各界の名士が自動車を連ねて参集した華々しい開校から23年経った昭和16年ころひっそりと閉校したが、その校舎は関東[給]->配電、戦後は東京電力の研修施設として昭和30年代半ばまで残っていた。


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