2020年4月8日水曜日

【Web版】松原征男氏遺稿「校長の裸踊り ―学校ストライキ―」

編註:研究誌第7号のために編集中だった未定稿ですが、松原氏の遺稿ですのでここに掲載いたします。


校長の裸踊り ―学校ストライキ―     

                          松原征男

 青山学院の苦学生の友、牛乳屋の親父である崎山比佐衛が1918 (大正7)年、44歳で同志と共に東京・世田谷に海外植民学校を開学した4年後の騒動である。

文献紹介 予め引用・参考文献を紹介し、謝意を表します。
A  崎山比佐衛傳 吉村繁義 海外植民学校出版部 印刷 崎山盛繁1955
B 火田の女 ―アマゾンの聖者― 泉 淳 新人物往来社 1981  
C 日本人を南米に発展せしむ -ブラジル移住と渋沢栄一 -渋沢資料館 2008

  例:A-134 は、崎山比佐衛傳の134ページにあります。
 
大正102 (『崎山比佐衛傳』によると)学生労働部の生徒が結束して(海外植民学校崎山)校長に談じ込んできた。生徒の抗議が詰問的なので校長は虚を突かれた。自責の念に駈られているとき、生徒が強硬に出たので面食らった校長は、とうとう理性を忘れ感情に支配されてしまい、何事か己を叱りつつわめきながら、上着を脱ぎ、下着を取り、しまいには下帯まで取り除けて全身一糸まとわぬ丸裸となって躍り狂う異様な行動に出たのであった。意気込んでいた生徒たちも息を吞んだ恰好でしゅんとなって引き退がり、このときは一と先ず収まったA-134

(『アマゾンの聖者』によると)「おい、そこの九州男児」「薩摩の鞘討ち、土佐のマッコトとは、これだぞ」比佐衛は股間の一物をひん握って、…秋の日射しの中に立ちはだかった。B-192

この談判は、学生部の卒業年度生のうち3名が落第と決定したことがきっかけになって、学校に対する不平と、寄宿舎生活に物足りない事情も手伝って起こった。春雨にけぶる日 全校生徒が円陣をつくった前に、校長夫妻はじめ職員一同大地に手を突かんばかりにして、誠意の足りなかったことを謝った。陳謝すれば救われると校長は考え、職員の反対を押し切っての悲壮な行動をとったA-pp.134-135のであった。 

104 新学期から崎山校長は…(授業)科目の一部を調整して、語学教授に重点を置いた。職工ズボンをはいて校舎内外の清掃整頓、実習強化など…生徒の規律実践を強調して自ら陣頭に立ち…学園の空気は緊張した。山室軍平が来校し神中心に一同が和らぐよう激励した。A-135



大正7.8年頃の酪農実習風景(絵葉書)











   

猛者らの中央が牧童姿の校長
 
    同5月 生徒代表と称する数名のものが校長室において数項目から成る要求書を提出した。教師陣を強化して学科を充実すること。卒業生の海外渡航を自由ならしめる方法を講ずること。学校経営に関する実情を明らかにすることなどの要求に押し問答となり、カットなった校長はそこにあった曲木の籐椅子を振り上げ“学生の分を忘れて何を言うか”とばかり大喝一声生徒代表を怒鳴りつけた。学園はハチの巣をつついたような騒ぎになり、生徒の一部は都下の新聞社を歴訪して、校長の暴力を云々したので、「毎日」(新聞)を除いて校長の武勇伝を一斉に報じ、学生は校長排斥と擁護の二派にわかれる事態となった。

6月14 この騒ぎに創立委員であり会計監督の濱口(雄幸)が全校職員生徒相会し、共に過去を反省し勉学に励むよう、壇上から学校の使命の重要なことを高調し職員生徒を激励した。A-136当時は労働運動の勃興期でもあり、小さな学校の騒動が大々的に報じられ、濱口雄幸会計監督は(崎山校長に)辞職の勧告A-139をした。校長には攻勢に立つと強いが、守勢に回ると弱い性質があり、対立が激しくなるとしどろもどろになり感情的になった。

827 海外植民教育会臨時評議会を開いた。設立委員も学校法人重視の濱口、江口、志立らの法理論と、校長の人物に重きを置く江原素六、富田幸次郎、道家斎らの人情論の二派に分かれた。


設立委員 崎山比佐衛傳 口絵より転載
法理論側は「崎山が天下の有志から浄財を集め出来上がった事業(植民学園)だから天下のものである…共に(設立に)名を連ねたわれわれとしても社会に対し申訳がたたぬ…崎山君は地位を退いて罪を天下に謝すべき」。一方、人情論側は「形式は法人であっても…有志の大部分は彼(﨑山校長)によって大業をなさしめようと金を出したのである、実質的には崎山のものである」。採決の結果、法理論は少数で、濱口らは創立委員・評議員を辞退、最も有力な大先輩との決別となったこの騒動で十数名の学生も失い、社会的信頼も半減せしめたこともあって責任を取り校長を辞したA-142

10月~12月 満州鉄道早川総裁の依頼を受け、満洲、朝鮮へ講演旅行をする。同行者越智義秀理事によると校長は「日本も鉄砲や軍艦では、何れの日にか必ず行き詰まる…世界に歓迎される武器はない」と言われましたA-143

(この間の活動の一端を窺える写真3葉を紹介します)

小笠原吉次渡伯記念写真 ともに1918(大正7)年撮影


前列右 﨑山 自由民権家板垣退助 その右 一族46名でブラジルに移住した小笠小笠原吉次C-36

提供 北海道浦臼町郷土資料館

(本誌110頁参照)



前列左寄り和装が大隈重信

その右小笠原吉次    

提供 﨑山ひろみ氏(原・東京・吉村家 /現・高知県歴史民俗資料館 蔵)


学校教員と渋沢栄一顧問 東京都・飛鳥山の渋沢邸にて 大正9年ころ

提供 﨑山ひろみ氏(原・東京・吉村家/現・高知県歴史民俗資料館 蔵) 

人名注記は木村孝氏
大正119  崎山理事長の司会により、評議員会が開かれ、法的には財団法人植民学園は解散、教員は一人も残らず去った。なお、海外植民学校の起源である学生労働会は植民義塾として崎山比佐衛個人に還元して結末を告げたA-148

これが学校ストに起因した“校長の裸踊り”騒動の顛末である。

2020年2月26日水曜日

【Web版】「海外植民学校と比佐衛」基礎資料〔随時更新〕

■海外植民学校の校友〔=卒業生+元教員〕名簿

現・汎アマゾニア日伯協会副会長の堤剛太氏
〔参照:https://www.nikkeyshimbun.jp/2019/190723-61colonia.html 以下〕
からご提供いただいた
海外植民学校 校友会(伯) 50周年記念誌
に掲載されている、
昭和14年6月編纂の「海外植民学校・校友名簿」
https://drive.google.com/file/d/1JL5EJhqDhlVdxKUxExcd2Gu0MwD7_FgS/view?usp=sharing

■高知県立歴史民俗資料館所蔵データ

崎山比佐衛の戸籍上の弟、血縁上は義理の甥にあたる崎山信義氏の
長女崎山ひろみさんと妹の江口洋子さんが、東京、高知さらにブラジルまで行って収集し、
高知県立歴史民俗資料館に寄贈した海外植民學校関係資料のリスト(pdf版)
https://drive.google.com/file/d/1T8BwKvqhuiLdIA30H_zRAR6gt0zEE9T6/view?usp=sharing

同上(Excel版)
https://drive.google.com/file/d/1TZ0HYbxa6fhh1_oVsZiyLsYHtJLQa_nK/view?usp=sharing

■「伯國アマゾナス州マウエス郡在住日本人氏名」

アマゾニア産業株式会社〔アマ産〕の創始者/社長の上塚司
〔参照:https://edcutokyo.blogspot.com/2016/12/blog-post_30.html
のお孫さん、上塚芳郎先生@女子医大からご提供いただいた、同社の
昭和15年4月8日付け「マウエス植民地合併報告書」
(上記アマ産が後記アマ興を、いわば救済合併した際のもの)
から抜粋した、当時の
「伯國アマゾナス州マウエス郡在住日本人氏名」リスト
https://drive.google.com/file/d/1OdPKh0WySelWiQpAEse017UK4ZhwGSVr/view?usp=sharing

大半が、
●アマゾン興業〔アマ興。参照:前同〕の植民地入植者(第1次~第3次)
 +その創始者の大石小作夫妻
●崎山比佐衛とその関係者
 +海外植民學校出身者
ですが、3名ほど「身元不明」の人もいます。

詳細な分析はこれから。


【Web版】研究誌「海外植民学校と比佐衛」を開始します

■当ブログの…

【緊急告知】今後の、研究誌「海外植民学校と比佐衛」について
https://edcutokyo.blogspot.com/2019/08/blog-post.html

に記したような事情から、第6号まで続いた研究誌「海外植民学校と比佐衛」を冊子の形で継続することは不可能になりました。

■しかし…

故・松原征男氏のご依頼で、同誌の編集をお手伝いさせていただいていた、当方のPC中には、7号以降に掲載を予定していた他では得難い基礎的なデータがあり、また、当方が執筆中だったり、執筆予定だっ原稿のためのいろいろな資料が集積されています。

■おそらく…

研究誌なきあと、このブログが、少なくとも大正半ばに、東京府荏原郡世田谷村大字下北澤に産声をあげた私立海外植民学校についての、おそらく世界唯一の情報発信源となってしまったうえ、ログをみると、今でも、ブラジルからのアクセスがあって、ニッケイの方々が「ご先祖様」のルーツを探っておられるようにも思われ、このブログを、このまま閉鎖することはないにしても、休止してしまうことには躊躇を感じます。

■そのため…

これから、可能な範囲ではですが、順次、データを追記してゆくことにいたしました。

以後

・新規の情報については、タイトルの冒頭に
 【Web版】と表示します。
   この系統の記事については、随時追記を加える予定ですので、一度アクセスされた
   アーティクルであっても、是非、もう一度アクセスすることをお奨めします
・既発行の研究誌に掲載記事については、タイトルの冒頭に
 【第X号】と表示します。
   ただし、なかには著作権法上問題のある情報もあるようですので、それらについては
   塗りつぶし、可能な限り参照可能な情報源を付記する予定です


2020年2月5日水曜日

吉村繁義「崎山比佐衛傳」のオリジナル本の背表紙見返し

■これまで…

海外植民学校を研究しながら、基本文献中の基本文献といってよい、標記の本については、日本の古本屋などの古書サイトにも出現しなかったオリジナル本が、令和2年1月に、ネットオークションに出品され、「無風」で落札することができた。

■ここまでの…

崎山傳との経緯は

「崎山比佐衛伝」のコピー本〔【追記】とオリジナル本〕
https://edcutokyo.blogspot.com/2016/10/blog-post.html

の追記で触れておいた。


■本の中身については…

すでに、上記のリンク先にある
・pdf版(文字列検索ができるのが有難い)
があり、それに加えて、後に入手できた
・コピー版(出典のページ番号を特定するには不可欠)
があるので、いわばモノを書くには不自由もないのだが、それでも欲しかった、いわば「お宝画像」は、裏表紙に見返しにある学校の遠景写真



■この写真は…

pdf版でも末尾に転載されているし、コピー版にもあるのだが、どちらも鮮明さに欠けているのが悩みだったので、今回ようやくかなり鮮明な画像を手に入れることができた。

 実は、これと同じアングルの全景写真は、学校創立初期のものが何パターンかあるが、この写真は、最も写り込んでいる建築物の数が多い、大正8年頃と思われる開校初期で、しかも学校としてのピークの状態を示す貴重なものと言える。

■それらのうち…

最も初期のものと思われるのは…

遠景写真1

大熊智之氏が、ネットオークションで落札したもの。

先の写真の③の寄宿舎は、まったく見えない。

■次が

遠景写真2

かつてWeb上にあったこれ。

先の写真の③の寄宿舎は、躯体(骨組)の白っぽい木材が露出していて、まだ建築途上であることがわかる。




かつて、同様にネットオークションに出品されていたこの写真(残念ながら気付いたのはオークションの終了後だった)と同一のものと思われる。


■そして…

遠景写真3

崎山傳掲載写真。

③の寄宿舎はすでに完成していることがわかる。

■これらの写真は…

絵葉書にして、年賀状などとして、支援者などに、学校の状況報告を兼ねて発送していたらしい。

たとえば、大熊氏蔵の上記「遠景写真1」の裏面は、この


ように「絵葉書仕立」になっている。

さらに、表の写真は別のものだが、当方手持ちのものは、この


崎山は、大正5年末、旭川で学校の設立資金
を募集するための講演会を開催しているが
送り先は、その折の、寄附者と思われる。
この宛先地の表示だけで届いているのだから、
坂東幸太郎「旭川商工人名録」旭川実業協会/T07・刊
NdlId:958691/41
によれば、市内に2店舗を有する「金物銅鉄商」
の花輪富太郎は、当地でかなりの有力者だったのだろう。
 



























ように、裏面に活版で文章を印刷して年賀状としているものもある。

【追記】

■上記「遠景写真3」の…

符号➁が、海外植民学校創立時に建築された、校舎である。

この校舎、戦後も残っていたことは、以下の写真で確認できる。

世田谷区立池之上小学校五十周年記念誌委員会・編「創立五十周年 記念誌」
同校々長/H03・刊
p.43掲載の「プール落成式 (30年7月)」と題する写真
この校舎、この時点では、新築当初なかった「控壁」が追加されていたりして、もともとが「安普請」らしかったこともあって、かなり老朽化が進んでいたことがわかる。

しかし、この校舎、昭和40年代には取り壊されていたことはわかっていたものの、もう少し時期を絞り込みたかったのである。

■最近入手した…

東京都建設局「S31-34 測 3000分の1地形図 『駒場』」」をみると、この校舎の周辺地域は、S32測量だが、この時点で、この校舎は消滅している。

「東電中央社員養成所」が、元植民学校の敷地

■実は…

ここまでこだわったのは、写真でいえば、校舎の向かい画面の右向こうにあった駄菓子屋さん兼模型屋さん「金の鳥」〔里俗「キンチョー」〕に、学校帰りにさんざん出入りしていたのに、この校舎については、全く記憶がなかったためである。

上記のように、この校舎は、昭和30年7月から昭和32年3月までの間に取り壊されていたのに対し、こちらが、当地に品川区大井町から地図に「北沢小」と表記されているが、前掲の「池之上小学校」に転校してきたのは昭和36年3月なのだから、記憶にないのは当たり前。

これで、やや安心した。