校長の裸踊り ―学校ストライキ―
松原征男
青山学院の苦学生の友、牛乳屋の親父である崎山比佐衛が1918 (大正7)年、44歳で同志と共に東京・世田谷に海外植民学校を開学した4年後の騒動である。
文献紹介 予め引用・参考文献を紹介し、謝意を表します。
A 崎山比佐衛傳 吉村繁義 海外植民学校出版部 印刷
崎山盛繁1955
B 火田の女 ―アマゾンの聖者― 泉 淳 新人物往来社 1981
C 日本人を南米に発展せしむ -ブラジル移住と渋沢栄一 -渋沢資料館 2008
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例:A-134 は、崎山比佐衛傳の134ページにあります。
(『アマゾンの聖者』によると)「おい、そこの九州男児」「薩摩の鞘討ち、土佐のマッコトとは、これだぞ」比佐衛は股間の一物をひん握って、…秋の日射しの中に立ちはだかった。B-192
この談判は、学生部の卒業年度生のうち3名が落第と決定したことがきっかけになって、学校に対する不平と、寄宿舎生活に物足りない事情も手伝って起こった。春雨にけぶる日 全校生徒が円陣をつくった前に、校長夫妻はじめ職員一同大地に手を突かんばかりにして、誠意の足りなかったことを謝った。陳謝すれば救われると校長は考え、職員の反対を押し切っての悲壮な行動をとったA-pp.134-135のであった。
同10年4月 新学期から崎山校長は…(授業)科目の一部を調整して、語学教授に重点を置いた。職工ズボンをはいて校舎内外の清掃整頓、実習強化など…生徒の規律実践を強調して自ら陣頭に立ち…学園の空気は緊張した。山室軍平が来校し神中心に一同が和らぐよう激励した。A-135
大正7.8年頃の酪農実習風景(絵葉書) |
これが学校ストに起因した“校長の裸踊り”騒動の顛末である。