書き出すとキリがないので、そちらは、研究誌用にこれからまとめるものを将来お読みいただくとして、昭和初期に、現地の州政府(パラー州とアマゾナス州)の要請に応じて、アマゾン各地に日本からの移民のための移住地を建設した、3社/機関の概要を、入手したばかりの、伯剌西爾年鑑から抜粋しておくことにする。
実は、これは、ここ2年ほど前から欲しくなっていたデータで、これらの移住地は、戦後のような棄民、つまり「何もないところに日本国民を放り出す」ようなものとは一線を画しているもので、従前のドイツの方式に倣って、あらかじめ各専門領域の専門家で構成された調査団を送って移住地選定のための調査を行い、その後、まずは会社/機関の関係者が現地に入り、本部の建物、移住者のための仮宿泊所、医療機関(病院・診療所)、農業試験場、小学校、主要道路などを建築・開鑿したうえで、移住者を受け入れていた(すくなくとも、その上で受け入れようとしていた)。
その会社/機関が、どの程度まで、これらのインフラを(いわゆるソフト面まで含めて)整備していたのかには、当然ながら差があって*、それぞれに、断片的な2次資料はあるもののまとまりを欠いていて、まとまった統一的な情報を入手するには至っていなかった。
*一言でいえば、資金の枯渇や会社内のトラブルなどで途半ばで終わったのが後述の「アマ興」、病院医師による巡回医療や気象台まで作るなど最も徹底していたのが同じく「アマ産」といえる。
入手した伯剌西爾年鑑のpp.83~85に、この3者、つまり(現地での着手順で)
・アマゾン興業〔通称「アマ興」〕
・南米拓殖株式会社〔同「南拓」〕
・アマゾニア産業研究所(後に「アマゾニア産業株式会社」)〔同「アマ産」〕
の昭和8年当時の状況(ただし、アマ興はすでに機能不全に陥っていた)が、以下のとおり一覧できた。(文中「|」は、引用者挿入の改行を示す)
アマゾン興業株式會社
昭和三年九月の創立にかヽり、十月ブラジル國アマゾナス州政府と土地二萬五千町歩のコンセッション契約を締結、マウエス郡に事業地を獲得した、|
土地は南緯四度廿分、西徑五七度四十分に當り、アマゾナス河の支流マウエス流域にある、|
同社事業の特色は。會社自ら直營事業により大に収益を計ると共に、植民に對しては、土地は勿論其の生産物から厘毫の利益も取らぬ點にある、即ち入植者は總て株主中から選び、一口二十株(一株二十五圓二十株金五百圓拂込)の株主に對し、一耕作単位二十五町歩を無償譲渡し各自の自由耕作に委せその収益は全部各自の所得になるのであって、従って入植株主は利益配當を受ける外自己の努力次第で多大の収益を得る譚で、之は同社が組合の性質を加[え]て相互主義に立つものと云ふべきである、|
株主は満十八歳以上五十歳以下の男子単獨者でも二名以上團結して一團となる場合(内少く共一名は同社の株主名義人たるを要す)叉満十二歳以上の子女なき夫婦者に對しても、旅券下附に就ては特に外務省で便宜を與へ更に拓務省の渡航費補助の特典が與へられて居る、及滿十八歳以下と滿五十歳以上の男女子でも、家族として同伴する場合ならば、旅券及補助金に關し同様の特典がある、|
尚同社はアマゾナス州政府との特約により同社直營部及植民者の生産物に對しては向ふ十年間免税の特典がある、入植を希望せぬ株主は將來に向って其の權利を保留する事が出來る事になつてゐる、|
事業は既に百數十町歩の開墾栽培を終り、主としてグヮラナ、米、アバカシイ、マンジオカを栽培し、精米所、米籾倉庫、診療所學校、教會、集會所等の施設が備へられ、植民は既に昭和六年末に於て百十八名に達してゐるが、未だ創業期の事とて見るべきものに無い
本社 東京市丸ノ内海上ビル内
専務取締役 澤柳猛雄氏
南米拓植株式會社
昭和三年資本金壹千萬圓を以て設立された鐘紡系の會社である、その具體的に事業の進捗を見たのは昭和四年三月以降であって、ブラジル國パラー州アカラ郡にアカラ植民地、モンテ・アングレ植民地、カスタニヤール米作試驗所を設け、總面積一、〇三〇、〇〇〇町歩の地に拓殖事業を行はうと云ふ目的である、|
直接開拓の衝に當た同社支店はベレム市にあり、支店事務所兼倉庫、移民宿泊所(ベツド三百備付)及附属桟橋は昭和四年八月末に完成を見た、|
アカラ植民地は同年九月から建設に着手されその上陸地點たるトメアスーには棧橋、事務所、社員合宿所、物品供給所、病院、修繕舎、製材所、移民宿泊所、倉庫等の設備があり、道路約百基米の開鑿も竣工し既に自動車等の運轉も開始されて居るし各河川を利用する交通と相俟つて至極便利である、ベレンの本據まで八十哩気候は日中華氏九〇度が超ゆる事稀で至って凌ぎ易い、既に開拓された面積約二千五百町歩、入植者昭和六年度末で一〇一三名(經營植民地全部を合し)に達して居る、|
トメアスー根據地には病床五十を有する病院を建設し日本人醫師二名薬剤士一名其他看護婦數名を常備し植民地内にニケの診療所を設け衛生上萬全を期して居る、叉現在第一第二小學校を開き邦人及ブラジル人数師をして教育に從事せしめ、其他公會堂、日用品販賣所、製材所、鐵工所、農業倉庫、郵便局、無線電信所等の文化設備も完成を見た、|
同植民地主要生産物はカカオ、ピメンタ・ド・レイノ(胡椒)、棉花、米であつて成績見るべきものがある、|
同社は是迄分益制度によって經營を進めて居たが今年(昭和七年度)からはコロノ制度を施行すると云ふ、即ち植民者を希望に従って二分し、一に獨立植民とも云ふべく道路付森林地二十五町歩を入植當初より買受け、會社の指導と保護の下に獨立して農業を營む者で、他は所謂コロノとして會社直營の農場に入植しカカオの請負耕作を爲す植民である、地價は一町歩につき四〇[金千]乃至六〇[金千]*、自作農奨勵のため低廉ならしめて居る、|
将來の計畫としては、森林生産物中良材フレージョ、パウ・サント、パウ・ローシヨ、パウ・アマレーロ等の輸出、樹脂、カスタニア(パラー栗)、パウ・ローザ(香料)、其他植物性脂油の精製事業、アマゾン漁業、鑛業特に石油等に向って鋭意開拓の歩を進める筈であると云ふ
本社 東京府下隅田町隅田一六一二番地 鐘淵紡績株式會社内
社長 福原八郎氏
支店 Bele'm, Para',Brasil
*[金千]=ミルレース
http://www.discovernikkei.org/ja/journal/2009/11/5/nihon-no-kyouiku/
アマゾニア産業研究所
昭和五年豫て調査研究の結果開拓の準備を進めつゝあった上塚司氏(現大藏參與官)を主領とするアマゾン調査團一行十四名(在伯者を加[え]て實は二十二名)は、同年十月十八日アマゾナス州首都マナオスに於て、ヴィラ・バチスタの現在同所所有地の賣買假契約締結を爲し、越[え]て二十一日現地に於てアゾニア産業研究所の立柱式並に斧下式を兼ねた入植祭を行ひ、茲に同所の創立と開發の業が創められ、孜々營々今日に及んで居る|
同研究所開設當初の宣言には次の如き意味即ち
将來我が大和民族が此の地に來り開拓し、栽培し、新社會を作り、
新文明を樹立する上に寄與せんとして建設されたものであつて、更
に世界文化の發達、人類福祉の増進に貢献せんことを期し|
云々
とあり、此の大抱負を経綸せん爲めに大略左の事業を行ふ計畫であると云ふ
一、アマゾナスに於ける農産、林産
水産、鑛産、地質、気象、保健衛生其他の調査研究
二、農産物の試作栽培
三、實業練習所の經營
四、醫院
五、氣象觀測所
六、博物館
七、各種調査報告書並に月報の發行
更に兼營事業として當分の間
一、農園の經營
二、製材所精米所及發電所の経營
三、林産及水産事業の經營
四、運輪業の經營
五、各種生産物の加工販賣
六、移民収容所の經營
等の諸事業を行ふ筈で、現在では既に附属實業練習所が設置され、農作物の試作栽培、氣象の観測、衛生保健の諸調査を開始して相當の成績を擧げて居る、|
所有土地の廣袤壹百万エクターレス、之が圓滑にして統制ある經營を行ふ爲めには人材を要すと云ふので、既に同研究所開設以前より國士館高等拓植學校(校長上塚司氏)なる教育機關を設け有為の青年を薫陶して之を植民地に送り出す事としてゐる、昨六年四月第一回卒業生を、更に第二回卒業生を今七年四月渡伯入植せしめた
(同校は七年四月財團法人として獨立、東京高等拓植學校*と改稱)
最近更に精米、製粉、製材、發電等の諸設備が完成し運輸交通の方面にも着々設備が備へられたと云ふ
名稱 アマゾニア産業研究所
INSTITUTO AMAZONIA
所在地 Villa Batista, W. Parintins, E. de Amazonas
東京本部 東京市麹町區内幸町一 大阪ビル内
所長 上塚司氏
所有地地域及び面積
東 Rio Manuru
西 Rio Maues }四〇万町歩
北 Parama de Ramos
Tabocal 地方 二〇万町歩
Carvalho 地方 一〇万町歩
東 Rio Maues
}三〇万町歩
西 Parama do Uraria
*実際には、川崎を校地としたので、「日本高等拓植學校」(通称「高拓」)と称した。
この高拓の卒業生「Koutakusei」の活躍については、現地語になっているほどで
残る情報量も多いが、とりあえず
http://www.amazonkoutakukai.com/
は、参照不可欠。
めずらしい、アマゾン拓殖三巨頭の写真
前列左から、「アマ興」専務取締役澤柳猛雄、「南拓」社長福原八郎、「アマ産」所長上塚司 |
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