2016年12月23日金曜日

柳田國男の「移民論」1

[ひょんなことから…]

ciniiで見つかった、我らが?根川先生の

根川幸男「忘れられた日本人-民俗学のフィールドとしてのブラジル日系社会-」
(『現代民俗学研究』第 1 号〔2009 年 3 月〕pp.65~77)
https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=38870&item_no=1&page_id=13&block_id=83

を読んだところ、かの柳田國男が、移民に関して、かなりのヴォリュームの論考を著わしていたことがわかり、まずは、手許の定本と文庫版の全集の中から、下記の論考を読んでみました。
 考えてみると、後記のとおり、大正9年以降、朝日新聞の今でいえば論説委員を務めていたので、当時の時事問題については、当初は元農商務省や内閣の高級官僚、その後には、国会の貴族院の書記官長だったこともあって、相当の関心があったと思われるので、別に意外なことともいえません。
 我が国の朝鮮併合とか満州への進出に関わるばかりでなく、今現在の欧米での移民や難民の流入にともなう摩擦などにも通底する問題が、すでに、当時から世界中で生じていたことがわかります。やはり「古典に学ぶ」ことは大事です。

移民政策と生活安定[抜粋]
   四 何うすれば好いか
 移民不振の根本の原因に、教育の不備があったことは確かであるが、しかもその不備は前にいったやうな単純のものゝみではない。今一つ背後に更に困難なる經濟教育の改良がある。これを完成するためには愈ゝ國民の總努力の必要があるのである。
 日本の移民は至って短い歴史しかもってゐないが、これによって養はれた我々の概念では、移民の成功は所謂錦を着て故郷に還るにあった。仮令本人は早く還ることが出來ずとも、どし/\と郷里へ金を送って、親族を喜ばせたり土地を買込んだりするのを、目的として人は出て往った。今年のやうに對外爲替の相揚が惡いと、殊に移民の本國送金が增して来る。貿易尻の勘定にはその方が都合がよいので、世間でも好感を以て之を迎へる。それから叉色々の品物を本國から取寄せる。太平洋岸の米國では、鯛の刺身まで日本から買って食って居る。是が叉ひどく出先の國の者に気になることらしい。支那人は柔和で辛抱強く、或點は移民として我々よりも勝って居るが、是をやる爲に何れの國でも嫌はれた。本國側から見れば、是れ愛郷心の登露であり、昔を忘れぬ人情の敦厚を意味するのであるが、之を迎へた國としては、いっ迄も他人を家に置いた感じをするから、親みが少く誤解か多く、所謂市民権などは出來るだけ制限して與へまいとする。相手が米人の如き気儘な者で無くとも、問題と妨碍とはどうしても起り易いのである。 其上に斯ういふ出稼式の移往労働には、どうしても向かぬ地方が次第に多くなって來る。國にはそれ/゛\生活の標準があって、勞働の報酬率の如きもそれに基いて自然にきまる。外國から來て働いて金を残さうとするには、それよりも低い暮しを爲し得るに限る。早い話が朝鮮人は内地に來るて貯蓄を爲し得るが、内地から朝鮮へ行っても單なる勞働では金を残すことが出來ない。従って今の日本人がそんな國を捜すとなれば、カリフォルニヤヘでも行くの他はない。彼地在來の労働者に取ってば、安い暮しをして略ゝ同じ働きの出來る出稼人は、何よりも畏ろしい競争者である故に、どんな無理をしても之を排斥するので、所謂白人濠洲主義の移民法なども公々然と主旨を言明して居る。あゝいふ國でも企業者資本家の側では、却って有色人の出稼ぎを歓迎して居るが、政治の上に勞働者の力が行はれて居るから、今のまゝでは排斥を免れることは難い。
 さうすると、第二の選擇は二つしか無い。自分等よりも生活の低い國に往って、何か別方法で金を儲ける工夫をするか、さうでなければ、従來の出稼式を改めて、土着してしまふ気になるかの他はない。支那人も追々に生活を改良して、今では決して最下等の暮しでない。それに南洋の各地も次第に人口が多くなって、支那人よりも今一段と安い労働者の居る處が幾らもある。さういふ地方に出稼しては、金をためて還ることも出來ぬわけだが、支那人は極端に辛抱強く、無理な倹約をして小金が出來ると、それに由って商賣に移って、永い間には産を爲すのである。ところがそれだけの根氣は竝の日本人に無いから、或は危險を侵し或は無理をして、荒い利得を早くつかまうとする。そこで滿洲や朝鮮などで、地みちな移住者は少しも増加せず誰も彼も官憲や大會社を利用して、割のよい仕事を探すか、さうでなければ此様な人を相手に、共喰ひをするやうな連中ばかりが横行をして居る有様であり、北海道や樺太では、いつ迄も土地の開發が思ふやうに進まぬと云ふ結果を見るのである。自國の領土内ならまだ何とかなるが、外國に出かけてそんな濡手で粟と云ふ成功が出來る筈がない。また假に出來るにしても、其様なことに向く者は日本に幾らも居らず、眞面目な移民にはその眞似は出來ない。そこで米國がたった一つの行先で、その昨年の排日が、我々の爲には大打撃のやうに感ぜられ、近隣の國土はこれ程廣いにも拘はらず、移民は八方塞がりの行詰りの如く感ぜられるのである。
 前にも申す如く、〔増〕加した人口は、出來ることなら國内で職を與へ國内で養ひたい。それがどうしても自由競争の壓迫を忍びかねて、外へ出た方がよいと考へるに至ったのである。もう其上に彼等に餘分の任務を負はせるのは無理である。永い間には追々出先の生活に入って、其國の人になることを覺悟させねばならぬ。それを腰掛にして金を作り、再び郷里に持還らうといふ目的をもって行くと、結局はごく少數の成功の爲に多数が危地を踏んで難澁をすることを、勤めた結果を生ずるのである。
 日本人は南方の人種で、夏の濕気の多い熱さに馴れ、歐洲人とちがって足を沾すことを畏れず、熱帯作物の生産には天然の適性を備へてゐる。近來惡くなったなどといふ者はあるが、その農夫には澤山の優越せる性質がある。一方に世界的なる穀物の不足は來らんとし、土地の未だ利用せられざる大面積は、今なほ經營者を待ってゐる姿である。かうしてなほこの間に有無相通の行はれないのは、他にも若干の原因があるか知らぬが、一つには十年、十五年の短期日に、成功して還って來ようといふ注文があるからである。是は實のところ眞の移民では無い。生活は至って樂でも、物價は日本のやうに高い國は、この近所にはない。物の安いのは好いことだが、其代りには多くは収入も少い。土着をして繁榮することは出來ても、財産を金に代へて持って還らうとすれば僅になってしまふ。斯ういふ理窟を考へて最初から其積りで、出て行かうといふ者もないのではあるまいが、如何にせん世間が移住を以て、桃太郎の遠征の如く考へ、非常に大きな成績を期待し黄金發見時代の如き痛快なる金儲けがないなら出ても馬鹿々々しいやうにに青年を教育して居るので、早今日ではよほど内外に弊害を生じ、此上は随分苦しい實驗をして見ないと、局面が展開せぬ有様に迄迫って居る。自由競争は強い小賢しい者には結構だが、分の惡い立場に居る者には、眞に気の毒である。限ある國の富を〔増〕加する一方の國民で分配しようとすれば、同胞の國にもにも爭ひがあり、且つ其爭いが年々に悪化する。國家として力を施さずには居られぬ所以である。
 現在の日本で最も豊かなる産物は、人の智慧と努力である。之を利用すべき機會は政治家の不注意に由って諸方面に塞がれて居る。物價の水準を高くして、輸出用の生産を困難にして居ることは其一つである。米國から小楊枝を、独逸から下駄の臺を輸入して、尚引合ふやうな物價では、手剰って心之を利用する途はあるまい。之を國外で働かせて見ようにも、この出稼根性では金を溜に行く處がない。従って僅かのこすい男が山勘の企業ばかりに没頭して、結局は日本人全體の聾價を、豫め傷つけて居るのだから話にならぬ。其弊害の根本に心付いて、早く改良の方法を考へる義務のある者が、それを捨て置くばかりか、寧ろ正しくない連中を世話して居る。物價の方はどうして引下げるかと言へば、需要を減少して下げて行くといふ。其減少すべき需要とは何であるか。奢侈品課税などで抑制し得るものはほんの小部分で、その他は主として日用品ではないか、即ち我々の小兒が餓ゑ、女房が寒がることを意味するのではないか。如何にも無情なる物價對策と評せねばならぬ。心ある者は、斯の如き無責任を宥恕してはならぬ。一日も早く各自の研究し得たる所を以て、我々の代表者を訓育し指導するやうに心掛け、標語ばかりの移民政策や、内容の乏しい生活安定策を以て一時を糊塗しようとする者を、警戒せねばならぬと思ふ。


(「定本 柳田國男」29巻pp.72~82。初出:大正14年6月「成人教育」*

*柳田は、1919年(大正8年)貴族院書記官長を辞任し翌1920年(大正9年) 東京朝日新聞社客員(現代でいえば論説委員)となったが、1921年(大正10年)から、おそらく国際連盟事務次長であった新渡戸稲造の推挙で ジュネーヴの国際連盟委任統治委員を1923年(大正12年)まで務めた。
 したがって、(もともと、南方熊楠による神社合祀への反対運動へのサポートなど、官僚としては「突き抜けている」側面のあった(やや乱暴に括れば「マイルドな『国士』」ともいえる)
柳田ではあるが)この執筆の当時、朝日新聞社客員かつ慶應義塾大学講師(民間伝承論)という純粋に民間人の立場にあった。

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