2023年5月13日土曜日

【Web版】 [余録]アマゾンの日系人脈(その1)

研究誌第7号掲載のためにまとめたもので、紙面の状態で暫定的に「ページ」に掲載しておいたのですが、読み返してみると、これはこれで、内容的には大石小作の学歴のほかには手を入れる必要もなさそうですし、さらに入れようとするときりがなさそうなので、一部リンク先補充などネット対応化を施す程度で公開しておくことにしました。

[余録]アマゾンの日系人脈(その1)

                          木   村     孝

■比佐衛のマウエス視察

 比佐衛は昭和2年11月から4年3月までの、第2回目のアメリカ大陸の視察旅行の途次、昭和3年6月19日ペルーのイキトスを出発し、アンデス山脈を越えてブラジル・アマゾナス州に入り、その首府マナウスを経て、7月6日にアマゾン河の河口の少し南のパラー州首府のベレンに着いているのですが1、その途次の6月末か7月初め、昭和7年に移住することになったマウエスを視察しています。

「南米の大自然」口絵地図の抜粋に加筆




 









 その旅行記である「南米の大自然」2の口絵の地図からも読み取れるように、マウエスはアマゾンの本流を下るルートからは「寄り道」で、しかも、実際には、この地図に描かれているようなアマゾン河からの直線的なルートはなく、いったん下流のパラー州との境に近いパレンチンスに下ってから支流を遡るか、途中の枝川の水路を蜿蜒と辿って、ようやくたどり着ける町なので、比佐衛は、例えば「マナウスで噂話を聞いて興味を持ったのでちょっと立ち寄ってみた」というものではなく、事前の何らかの情報に基づいて明確な意図を持って立ち寄ったことが推測できます。

 比佐衛は、上記の「南米の大自然」で、(マナウス視察の後)「其れから少し廻り道をしてマウエスを訪ふた、マウエスはガラナーと云う特産物が出来る所で将来有望な土地であると聞いたからである。」〔下線引用者〕と書いているのですが3、この時期に、マウエスという土地や特産物のガラナについての情報を、比佐衛らのいた日本に伝えることのできた人物は、後に述べるただ一人しか考えられません。4

 ところで、7月1日ころマウエスにいた5比佐衛は、アマゾン河を下って前記のとおりベレンに6日に着き、そこからブラジルの東海岸線を南下し8月21日にリオ・デ・ジャネイロに入っているのですが、これとほぼ完全に時期を同じくして、比佐衛と逆ルートでマウエスに向かっていた日本人8人からなる一団がありました。それが、その唯一の人物である大石小作が率いるアマゾン興業〔以下「アマ興」〕の先発隊で、5月19日神戸出航、7月5日サントス着の「さんとす丸」でブラジル入りし、8月23日にマウエスに到着しています。

■「福原調査団」

 なぜ大石なる人物が、この時期にマウエスに向かっていたのかを理解するには、話を5年ほど遡らせる必要があります。

 大正12年、アマゾン河下流に位置するパラー州の州統領6は、当時の初代駐伯大使田付七太に対し、日本からの移民による同州のアマゾン河下流域の開発を要請しました。

 翌々年になって、将来の50万ヘクタールの州有地の譲与についての具体性のある申出が州政府からあったのを機に、大正15年、日本政府の要請を受けた鐘淵紡績〔鐘紡〕が資金を拠出し、同社取締役で東京工場長だった福原八郎を団長とする調査団〔以下「福原調査団」〕が派遣されます。

石原喜久太郎「衛生視察南米紀行」博文館/昭和6年・刊 口絵写真
前列、右から2人目が団長の福原、左から2人目が著者の東京帝大医学部・伝染病研究所各教授の石原喜久太郎



 















福原八郎(前列左)とコンデ・コマこと前田光世(同右)
参照:
前田光世の足跡辿る取材陣=柔術ドキュメンタリー製作進む=4月にマナウスで上映会 ブラジル日報

 大正15年5月30日にベレンに到着した7福原調査団8は、当初州政府側が提示したカピン河流域を調査したものの適地が見つからなかったため、2隊に分かれて周辺地域を再調査した結果、うち1隊がカピン河東隣のアカラ河流域にようやく適地を発見したといいます9

 この福原調査団によるパラー州東部の調査10を知った同州西隣にあってアマゾン河中流域を抱えるアマゾナス州の州統領サレスは、大正15年5月5日から10日まで同州の首府マナウスを訪れていた田付大使に、福原調査団によるパラー州の調査に引き続きアマゾナス州の調査を要請しました11。しかし、福原調査団の本体は、おそらく、パラー州での調査に予定以上の時間と費用を費やしたことや、早急に同地の拓殖のための会社の設立など日本側での態勢作りにとりかかる必要などからと思われますが、昭和3年2月25日に帰国のため同地を離れています12

 この「福原調査団」の調査は、その帰国後、政財界での協議のうえ、後にパラー州のアカラ植民地、モンテアレグレ植民地などを経営することになった南米拓殖株式会社〔略称「南拓」〕が鐘紡を中心として設立される形で実を結んだのですが、そのほかに「福原調査団」と田付大使のアマゾン地方の視察は、2つの副次的効果を生んでいます。

■「福原調査団」の副次効果1「アマゾンニア産業研究所」

 その一つは、後に元代議士で高橋是清の秘書官も務めた上塚司が興した、アマゾナス州東端のパレンチンス郊外のアマゾニア産業研究所〔後に、財団法人アマゾニア産業研究所、さらに、アマゾニア産業株式会社。略称「アマ産」〕の端緒となったことです。

 先に記した田付大使のアマゾン地方訪問の随行者の一人に粟津金六という人物がいました13。粟津は「熊本県出身で、神戸高等商業学校を卒業後、農商務省海外実業練習生として、大正三年に渡伯し、…日本貿易会社リオデジャネイロ支店に入り、ポルトガル語には堪能なるの故を以て公認翻訳人の資格をも獲得してゐたが、同会社の解散閉店後、我が大使館の嘱託」14となっていたことから、田付大使に通訳として同道したのでしょう。

 粟津は、大正15年6月4日に同大使が転任した後は「サンパウロ州ノロエステ鉄道沿線リンスに移り、土地売買仲介・法律相談事務所を開いていた」15のですが、同年12月、南米での何らかの事業を興す目論見をもって、調査のためブラジルを訪れた東京16の実業家山西源三郎17に対する大使館附駐在海軍武官の関根少佐の推薦によって、山西を案内してアマゾナス州に赴き18、先の田付大使の同州への訪問時にサレス州統領の希望を知っていたことや、サレスとは妻の兄を通じで旧知の間柄だった19ことも手伝ったと思われますが、同州政府と、後に「山西・粟津コンセッション」と呼ばれる(その内容から意訳すると)「条件附公有地無償払下契約」を昭和2年3月11日付けで締結しました20

 しかし、この契約、もともと山西なる一個人事業者の手に負えるスケールの案件ではなく21、山西自身も、帰国後、書籍を2冊22相次いで出版するなどして出資者や入植者の確保に奔走したようですが、そのうち、昭和2年春から始まる金融恐慌によって本業である建設業が倒産し、結局、アマゾナス州との先の契約上の地位を、粟津と同郷・同窓の上塚司が「当面は事実上」引き継ぎ、昭和3年12月に現地で活動開始した粟津を団長とする第一次調査団〔以降「粟津調査団」と呼ぶ〕、同5年8月からの本部の設営を兼ねた上塚を団長とする第二次調査団〔以降「上塚調査団」と呼ぶ〕の調査を経て、前記パレンチンスやや東、パラー州との境に近い「ヴィラ・アマゾニア」と名付けられた地への本部建物の建築に着手し、さらに昭和7年4月6日に「山西・粟津コンセッション」の上塚への名義変更を完了させることによって23、アマ産としての活動が本格化したのです。

■「福原調査団」の副次効果2「アマゾン興業」

 福原調査団に通訳として参加していた大石小作という人物がいました。

 この大石は、団員として日本から派遣されたメンバーではなく、もともとは、東京大阪高等工業学校〔現・東京大阪工業大学、大阪帝國大学を経て大阪大学機械科を明治44年卒業後24、鐘紡に入社し、和歌山工場の技師長25を務めた後に退社して、自費で世界各国を巡って工業や農業の調査をしていた途次、たまたまブラジル滞在中に福原調査団のこと聞き知り、通訳として調査団に合流したようです26。調査団としても、ほとんど事前の情報がなかった27南米に知見のある日本人であるだけでも有り難い存在ですし28、まして、大石が鐘紡のしかも元幹部社員なので、団長の福原にとっては願ってもない頼りできる人材だったのでしょう。

 調査を終えて帰国する福原調査団と別れた大石は、その足でベレンからアマゾナス州に向かいました。

■大石小作のアマゾナス州調査

 ここから昭和2年1月29に日本に帰国し、後記のアマゾン興業〔アマ興〕の設立に至るまでの大石の行動については、はっきりした記録がないのですが、上塚=中野・前掲書の

「1926年8月下旬、福原調査団とベレンで別れた大石は、アマゾナス州を訪れた。目的は土地コンセッション契約にある。大石の行動について、詳細は伝わっていない。わかっているのは、マナウスでサーレス知事に会い、土地コンセッション契約の可能性を確認し、グアラナに関する情報をえてマウエスを訪れたこと。」30

というのが、おそらくブラジルとくにアマゾナス州側の資料も参照して書かれたと思われることから、話の前後関係を別にすれば、現時点で最も確実な情報といえそうです。

■アマゾン興業の設立

 大石は、アマゾナス州マウエスに、ガラナ栽培を主目的とする邦人植民地を設ける構想を持って帰国したのですが、その学歴・職歴のどちらからみても「工業の専門家」で、植民地の設置や経営さらに営農については全くの素人ですので、マウエスの植民地構想を、旧知の元文部大臣で当時貴族院議員だった澤柳政太郎に相談した結果31、その弟で、病気のため海軍少佐を退役以後、貿易に従事していた32澤柳猛雄が大石の構想に参画することになりました33

 大石は、帰国後日本国内を遊説して、その構想ずるマウエスでのガラナ栽培への参加者を募ったといわれているものの、その具体的な資料はまだ発見できませんが、このアマ興は、南拓やアマ産のように、最初に資金を集めて事業のための会社や組織を作りその事業者が設定した開拓用地を入植者に売却したり貸し渡したりするのではなく、一株25円の株式を20株以上引き受けた株主が25町歩(≒ha)の土地を取得できるという方式のため、入植者が集まらなければ、そもそも事業主体となる会社を作ることができない仕組みとなっていたので、新聞や雑誌への投稿のほか、全国規模で入植者を募る必要があるでしょうし、実際、後の入植者の出身地をみると、北海道から鹿児島までほぼ満遍なく分散していますので、かなり広汎に広報活動を展開していたらしいことがわかります。

 このような大石らの活動が、南米とくにブラジルを海外植民学校卒業生の主要な発展先と考えていた比佐衛の耳目に触れなかったわけはありませんし、むしろ、大石の側から崎山に積極的に接触を持った可能性が高いと思われます。

 そのように考えられるのは、大石は、昭和3年9月6日のアマ興の創立総会に先立って、前記のとおり5月に日本を出発しているのですが34、そのとき同行した(将来の)アマ興社員7名のうち、唐木道雄、羽野鶴雄、尾崎貞吉の3名は学校の出身者だったからです35

 それほど数が多いとはいえない昭和2、3年当時の学生の中から3名を採用していることからみて、大石が比佐衛にその斡旋を直接依頼した可能性が高く、その折、大石から「白砂青松」のマウエスの土地柄やガラナ栽培の有望性などを詳しく聞き知ったとすれば、学生の移住先でもあり、後にアマゾン河を下る折に、冒頭に記したような大きな寄り道したことも理解できますし、比佐衛が、2回目の視察に出発したのは、昭和2年11月29日横浜出港の日本郵船墨洋丸ですので36、十分大石との接触は時間的に可能だったことになります。

■次編に向けて

 大石が向かったアマゾナス州マウエスには、昭和4年1月に、比佐衛の依頼を受けた学校卒業生の伊藤松之助が、アマ興植民地のマウエス川の対岸にある、後に比佐衛が移住した土地の開墾を開始し、同年8月やはり卒業生の山内登37がそこに一時期合流するのですが、この山内は、後に、アマ産のマウエス支店長、ベレン移住後は「汎アマゾニア日伯協会」会長や「アマゾニア日本移民援護協会」事務局長を務めるなど、アマゾン日系人脈の要(かなめ)の一人となった人物なのです。

                                 ―次編に続く―

1 崎山比佐衛の澁澤榮一宛て昭和3年8月21日付け書簡(渋沢青渊記念財団竜門会・編「渋沢栄一伝記資料 第38巻」渋沢栄一伝記資料刊行会/昭和36年・刊pp.242・243)
 https://eiichi.shibusawa.or.jp/denkishiryo/digital/main/viewer.php?imgurl=380242

2 崎山比佐衛「南米の大自然」海外植民学校出版部/昭和4年・刊〔以下「大自然」〕(国会図書館・近代デジタルライブラリー ID:〔以下「NDLID」〕https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1191540

3 同書p.131 https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1191540/1/90

4 我が国にもたらされたガラナに関する最も初期のもう一つの情報と思われるのが、外務省「移住地事情 第11巻上」同省/昭和2年(google books 所収)であり、これは大正15年4・5月の、当時の田付七太大使の視察(後述)結果をまとめたものとのことであるが(同書の)、アマゾナス州の農業に関する記述の中に、ガラナ(グアラナ―)について「『マウエス』郡ノ特産タル植物ノ果實ヲ溶リタルモノニシテ強力ナル強壮剤ナリ 即チ多量ノ「カフェイン」ヲ含有ス 一基瓦ノ市価十「ミルレース」位ナリ 尚最近此ヲ材料トスル清涼飲料ノ製造盛トナレリ」(p.31。適宜空白挿入)とある。

5 本誌第3号p.10参照

6 現在では、アメリカ各州の知事と同様「州知事」とよぶのが通例であるが、当時の我が国では知事つまり府県の首長は国が任命していたので、これとの混同を避けるため、公選される(当時のアマゾナス州憲法39条)州の首長のことを連邦の統領である「大統領」に準じて「州統領」と表記していたものと思われる。

7 青柳郁太郎「ブラジルに於ける日本人發展史 下巻」同刊行委員会/昭和17年・刊〔https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1439336/〕Bp.164〔https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1439336/1/91〕・ブラジル移民文庫<https://www.brasilnippou.com/iminbunko/Obras/24.pdf> Wp.168(以下「発展史下」)

8 構成メンバーや、往途にニューヨークで調達した資材をみると、さすがに当時日本有数の企業の取締役が率いる調査団との感がある。

9 石原喜久太郎「衛生視察南米紀行」博文館/昭和6年・刊〔NDLID:1075262。以下「衛生視察」〕p.80によれば「結局アカラ川筋は、ベレームに近く、川筋の屈曲少く、舟行が容易である。土地も平坦で開拓に便利だし、地味もカビンよりは良好だと云う結論に総合せられ、此川筋を中心に、左右カビン及びモジウに向かって擴がった約百萬町歩の地域を州統領に申出て、これが首尾よく後日契約成立に到った」としている。

10 この視察は、ブラジル側・日本側共に当初は秘密裡に行われていたようで、日本での第1報も、調査団が資材調達のために立ち寄ったニューヨークの日本の新聞社の支局からの記事の配信によるものと言われる。

11 田付大使によるアマゾナス州の訪問は、同大使がパラー州政府関係者に福原調査団を引き合わせるため大正15年4月末ベレンの赴いたところ(発展史下Bp.165/Wp.168)、その到着が遅れることとなったため、その待機期間を利用したものという(同Bpp.224・225/Wpp.224・225)。

12 鐘淵紡績株式会社「伯国植民地視察報告書」同社/昭和2年6月・刊p.1

13 発展史下Bpp.164,232/Wpp.168,232

14 発展史下Bpp.232・233/wp.232

15 前同

16 震災復興事業のため当時は東京を本拠としていたが、もともとは新潟県の土建業者(上塚芳郎・中野順夫「上塚司のアマゾン開拓事業」天園/2013年10月・刊)p.036)。

17 山西は、渡伯に先立って、中央新聞拓殖版を読んで、その執筆者の一人だった上塚司と面談し、その従兄にあたる上塚周平と、粟津への紹介状を受け取っている(上塚=中野・前掲p.036)。

 上塚周平は、水野龍の現地代理人として、東京帝国大学法学部を卒業直後に水野に随行して、第1回目の移民船笠戸丸でブラジルに渡って以来、自ら植民地を経営するほか移民の保護にあたった、ブラジルでの植民事業の魁の一人である(サンパウロ人文科学研究所Web「物故先駆者列伝:上塚周平」<http://www.cenb.org.br/articles/display/328>)。

 また、粟津は、上塚司とは同郷・同窓、つまり共に熊本出身で、粟津の方が神戸高商の2年後輩にあたっている。粟津は、大使館退職直後、ブラジルの広大な土地を開拓するにあたり、自分が人を集めるので「日本で資金を調達して欲しい」旨の書簡を上塚司に送っていた(上塚=中野・前掲p.036)。

18 発展史下Bp.232/Wp.232

19 前掲・上塚=中野p.030

20 発展史下Bp.232/Wp.232

21 発展史下Bp.240/Wp.241。

22 山西源三郎「我国人口食糧及資源問題解決地としての南米伯剌西爾」同/昭和2年・刊、同「我国人口食糧及資源問題解決地としての南米伯剌西爾アマゾン流域. 第2巻」各前同

23 以上、発展史下Bpp.240-247/Wpp241-247

24 石原・前掲p.44。大石の出身学校については京大、大阪高工など諸説があるが、大石とアマゾンで長期間にわたって、いわば「同じ釜の飯を食」った著者が帰国後ほどなく著わしたこの記述が、最も信憑性が高いと考えられる。
  
大阪帝国大学一覧 昭和11年 p.339 国立国会図書館 デジタルコレクション

25 前掲・緑wp.10。なお、大石の鐘紡在籍中の職位を「技師長」とする資料が多いが、「鐘紡の技師長」だとすると、現代風にいえば「CTO」(Chief Technical Officer)、当時の我が国で類例を探せば旧国鉄の技師長同様の最上級役員の一人ということになるので、調査団長で取締役・東京工場長だった福原とは、少なくとも同格のはずである。そうであるなら、福原は、たとえば顧問として迎えたはずで、単なる通訳として処遇するとは考えにくい。

26 大石がサンパウロ滞在中に、リオ・デ・ジャネイロへの到着を知ったとする文献(前掲・緑p.10、川田拓哉「アマゾナス州における日系移民の歴史」アマゾナス日系商工会議所/1996・刊p.13など)もあるが、福原調査団は、ニューヨークから英国の貨客船でベレンに直行している(福原八郎・述「ブラジル事情」実業同志会/昭和3年・刊〔NDLID: 1916746〕pp.13・14)ので、これは明らかな誤りである。実際には、リオで調査団のことを知った大石がベレンに先着して待っていた(前掲・上塚=中野p.030)というのが最も真相に近そうである。

27 福原は出発前「水盃」を交わしていたという(福原・前掲p.8)。

28 福原団長は、当地の日本人中で最も著名かつ人望のあった「コンデ・コマ」こと前田光世(サンパウロ人文科学研究所Web「物故先駆者列伝:前田光世」<http://www.cenb.org.br/articles/display/231>)と接触し、後に南拓の現地法人に取締役としての参加を得ている(前掲写真参照)。

29 上塚=中野・前掲p.032

30 上塚=中野・前掲p.032

31 「緑 西部アマゾン日本人移住70周年記念誌」同編纂委員会/1999・刊<ブラジル移民文庫038 http://www.brasiliminbunko.com.br/Obras/38.pdf>p.10

32 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫「中外商業新報 1923.6.26 (大正12) 実業同志会関東本部発会式」参照

 < http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10111131&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA>

 なお、昭和2年ころは日本寫聲蓄音機合名会社の代表役員だった(交詢社「日本紳士録 31版」p.422)

33 サンパウロ人文科学研究所Web「物故先駆者列伝:澤柳猛雄」 < http://www.cenb.org.br/articles/display/265>

34 現地が雨季に入る前に、本部用地や会社直営のガラナ園用地の伐採・山焼きを行うためといわれています。

35 「校友会50周年記念誌」(伯国校友会/1998年頃・刊)【堤剛太氏より提供】末尾の「昭和14年2月編纂」の校友会名簿では、唐木、羽野が「正卒」つまり2年間の課程を修了した卒業生、尾崎が「正科」つまり中退者とされている。

36 崎山・前掲「南米の大自然」p.72

37 山ノ内、山之内とも表記される。漢字では「山内」、訓みとしては「やまのうち」(現地表記では“Yamanouth”)のようである。

2023年5月8日月曜日

今井修一の没年が判明

 ■海外植民学校の…

まごうかたなき「城代家老」というほかない、今井修一が

井上雅二「世界を見渡しつつ : 興亜青年に贈る」刀江書院/S18・刊

pp.558‐559

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1060499/1/320

の、以下の記述で、崎山のほぼ1年後にあたる昭和17年7月ころ死亡していたことがわかった。

海外植民學校創立以来、永く苦心して人材を養成し來つた主事の今井修一君が、未だ五十余歳の若さで卒然として逝かれた。昨年の秋にはその長男*が陸軍士官として戰線に名譽の戰死を遂げ、その傷み未だ消へざるに君は未亡人**と十八歳の次男***を殘して逝かれたのである。私は初代校長の崎山君がブラジルに移住された後を受け、顧問から校長となつたがそれは名ばかりで、一切は今井君の活動に待って来た。今その今井君を失って悲痛の感に堪へないのである。しかし、人生命あり、地上の生命が必少ずも全部ではない。精神的事業を爲した者には永生の道が開けてゐる。今井君の殘された教は永く盡きることなく南米、南洋、満州蒙の各方面に生きてゐる。それを思へば君以って瞑すべしである。

そこで左の一首を未亡人に贈って霊前に供へていたヾいたのであった。

  三十一、今井修一君を悼む 七月三十日

    開學育才三十年  一朝何事出塵縁

    唯[斤火]遺韻長無盡 到處天涯衣鉢傳

      學を開き才を育くむ三十年、一朝何事ぞ塵縁を出づ。

      唯だ[斤火]ぶ遺韻長く盡きる無く、到る處の天涯衣鉢を傅ふ

** 未亡人    ひさ〔「世田谷区立若林小学校 創立百周年記念誌」口絵写真・pp.64-65/104〕

*  長男        智〔「海外植民学校 昭和九年度報告書」中「基本金」出捐者名簿より推定〕

*** 次男        勇〔同上〕


■この今井については…

断片的ながら意外に多くの史料があるのだが、なかなかそれらを「結晶」させるには至っていなかった。

 ただ、この亡くなった時期が判明したことによって、おぼろげながら、前年の崎山の死を始めとする過去5年ほどに起こった多くの出来事が、それまでの、井上が示唆するような30年近く続いた緊張を途切れさせてしまったことが早逝を促したのではないかと思い至った。

 既存の史料からの再発掘の必要もあり、どこまでまとめられるか自信はないが、その後の遺族の消息を含めて、このページに徐々にで追記してゆくことにした。

【今井の住所地判明】

 北澤・代田のかつての市場を探していたら、たまたま、国会図書館・蔵の

丸之内新聞社・編「大東京紳士録 昭和2年版」同社/S02・刊 p.968

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1136477/1/607

に、海外植民學校主事当時の今井の住所が記されていた。

世田谷町世田谷1405

T07「郵便地図」第一荏原小学校附近抜粋

 ブルーマップで同地を探したら、現在の世田谷区梅丘3丁目の1~3,14,15,17,18。

 かつて、「秀じい」こと故・斉藤秀雄氏から、「小さいころ今井先生の家に連れていってもらったことがあって、荏原小のすぐ西のところだった。」と伺ったことがあったが、正に今井の妻ヒサが裁縫教師として奉職(T11~S33)していた旧・第一荏原小学校(現・若林小学校)から3ブロックほど西に位置する場所だった。


当ブログ中の「ページ」のインデクス

■さる機会から…

このウログを見返してみたら、ウログ中の「ページ」には、google などの検索サイト経由でないと、アーティクルに辿りつきにくいことが分かったので、本体の中にインデクスを作ることにしました。

第5号pp.19-26「[余録]北海道拓殖の史料から」 

第5号pp.1~2「序にかえて-北海道廳殖民軌道藻琴線-」

第7号用:[余録]アマゾンの日系人脈(その1)

第4号pp.06-13「[余録]北海道拓殖史の中の崎山家」

【アーカイブ】海外植民学校:baumdorf.my.coocan.jpスタートページ

 【アーカイブ】調査サブノート:海外植民学校の顛末-その発足から終焉まで

【アーカイブ】調査サブノート:崎山盛繁氏インタビュー 植民義塾とマウエスと

【アーカイブ】調査サブノート:「ラプラタの夕空」 植民唱歌