2016年12月30日金曜日

【資料】1933年伯剌西爾年鑑

【ブラジル移民が…】

公式に開始されたのが、1908(明治41)年。いわゆる「笠戸丸移民」からで、781人の移民者を乗せた同船が神戸を出港してから約2月の航海を終えて、サントス港についた6月18日を、ブラジル側では「日本人移民の日」、日本側では「海外移住の日」と呼んでいる。
http://www.ndl.go.jp/brasil/column/kasatomaru.html



 この本

 
は、それから4半世紀となるのを記念して、1933年にブラジルの伯剌西爾時報社が編集・発行したデータブック。
 
(なお、目次は、国会図書館のここ
で確認可能)
 
 
定価欄の「金へんに千」はブラジルでの「ミル」の当て字

 
 したがって「年鑑」というのはあまり正確ではなく、「日系伯剌西爾大全」とでもいうべき内容の本である。
 
 ネットオークションでは、年末やお盆どきには、「お化け」が出ることが結構多いのだが、これも、その典型。
 普段あまり使わないキーワードで検索したら、ひょっこりと、この本が破格の価格で出品されていて、若干競ったものの無事に落札できた。
 
 昭和の8年、大きく括って昭和0年代という時期は、日本の会社・機関が一斉に北部のアマゾン河の流域の開拓に着手した時期で、崎山比佐衛がアマゾナス州マウエスに一家をあげて移住したのも昭和7年。
 
 したがって、この本には、アマゾン河流域の情報はまだ少なく、どうしても、南部とりわけ「聖市」ことサンパウロとその西の内陸地方のものが中心となるのだが、それでも、ここ数年間探していた情報が次々に発見できた。
 
 とりわけ、南部の在住者にほぼ限られるが、巻末の5分の2近くを占める名簿が圧巻で、自営農や商人、職人などだけでなく、コロノ、さらには農勞と呼ばれていた純粋な雇われ人も網羅していて、かねて消息を探していた人物の情報も見つけることができた。
 
 ただ、当時の慣例らしく、サンパウロなど海岸の大都市から内陸部に向かっている鉄道の路線別に、始発の都市から近い駅の順に日本人の移住地がリストアップされているので、そもそもこちらには土地観がないうえ、今では鉄道がなくなっているためにgoogle map は使えず、この80年の間に放棄された土地も多いようなので、目的の移住地を探し出すのには(後記のように本が「崩壊」してゆくのも手伝って)、意外に手間がかかる。
 
 「銀ブラ移民」で有名なアリアンサと名の付く植民地を例にとると、
「ノロエステ線」沿線で
p.151から始まる「リンス駅」の項に
・アリアンサ第一區植民地 pp.179~183
・アリアンサ・トビ三區 pp.183~184
その後、いくつかの植民地あるいは耕地と呼ばれていた地域が続き
p.191から始まる「プロミッソン驛町」の項に
・第三アリアンサ移住地 pp.273~276
・第二アリアンサ移住地 pp.276~278
・第一アリアンサ移住地 pp.279~284
・ノーヴァ・アリアンサ移住地 p.284
という順にリストアップされている(目的の人物は、第一アリアンサの「ドン尻」のp.284でようやく見つけ出した)。
 
 【余談】
 ただし、この本、さっそく、複合機で50ページほどpdf化したところ、紙質が悪いのだろうが、あちらこちらがバラバラとフレーク状に崩れてゆく。昭和8年出版ということなので80年程度経過した本ではあるが、日本のものでは綴じがはずれることはよくあるものの、ここまで風化して「本が崩壊してゆく」ようなことはまず起こらない(前のアーティクルの「雑誌 ブラジル 昭和8年3月号」は全く同時代、しかも「たかが情報雑誌」なのだが同様である)
 
 国会図書館のデジタルライブラリの本の表紙に「電子複写禁止」とスタンプの押されているものを目にするが、この本のような「崩壊型」ばかりではないのだろうが、「なるほどこういうこともあるんだ」と納得した。
 
  

2016年12月28日水曜日

【資料】雑誌「ブラジル」の植民学校紹介記事

雑誌「ブラジル」(日伯協会・発行)の昭和8年3月号に





「特集『学校紹介』」と題する、ブラジル国内の学校と日本内地にある植民学校の紹介記事中、そのpp.30~32に、おそらく当時の海外植民學校の学校案内を基にしたと思われる、同校の紹介記事が掲載されています。




 この特集記事では、日本の植民学校として、そのほかに
・日本高等拓殖學校
  アマゾニア産業研究所附属 實業練習所
・力行會海外學校
・廣島海外學校
・日本植民學校
が紹介されています。




2016年12月23日金曜日

柳田國男の「移民論」1

[ひょんなことから…]

ciniiで見つかった、我らが?根川先生の

根川幸男「忘れられた日本人-民俗学のフィールドとしてのブラジル日系社会-」
(『現代民俗学研究』第 1 号〔2009 年 3 月〕pp.65~77)
https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=38870&item_no=1&page_id=13&block_id=83

を読んだところ、かの柳田國男が、移民に関して、かなりのヴォリュームの論考を著わしていたことがわかり、まずは、手許の定本と文庫版の全集の中から、下記の論考を読んでみました。
 考えてみると、後記のとおり、大正9年以降、朝日新聞の今でいえば論説委員を務めていたので、当時の時事問題については、当初は元農商務省や内閣の高級官僚、その後には、国会の貴族院の書記官長だったこともあって、相当の関心があったと思われるので、別に意外なことともいえません。
 我が国の朝鮮併合とか満州への進出に関わるばかりでなく、今現在の欧米での移民や難民の流入にともなう摩擦などにも通底する問題が、すでに、当時から世界中で生じていたことがわかります。やはり「古典に学ぶ」ことは大事です。

移民政策と生活安定[抜粋]
   四 何うすれば好いか
 移民不振の根本の原因に、教育の不備があったことは確かであるが、しかもその不備は前にいったやうな単純のものゝみではない。今一つ背後に更に困難なる經濟教育の改良がある。これを完成するためには愈ゝ國民の總努力の必要があるのである。
 日本の移民は至って短い歴史しかもってゐないが、これによって養はれた我々の概念では、移民の成功は所謂錦を着て故郷に還るにあった。仮令本人は早く還ることが出來ずとも、どし/\と郷里へ金を送って、親族を喜ばせたり土地を買込んだりするのを、目的として人は出て往った。今年のやうに對外爲替の相揚が惡いと、殊に移民の本國送金が增して来る。貿易尻の勘定にはその方が都合がよいので、世間でも好感を以て之を迎へる。それから叉色々の品物を本國から取寄せる。太平洋岸の米國では、鯛の刺身まで日本から買って食って居る。是が叉ひどく出先の國の者に気になることらしい。支那人は柔和で辛抱強く、或點は移民として我々よりも勝って居るが、是をやる爲に何れの國でも嫌はれた。本國側から見れば、是れ愛郷心の登露であり、昔を忘れぬ人情の敦厚を意味するのであるが、之を迎へた國としては、いっ迄も他人を家に置いた感じをするから、親みが少く誤解か多く、所謂市民権などは出來るだけ制限して與へまいとする。相手が米人の如き気儘な者で無くとも、問題と妨碍とはどうしても起り易いのである。 其上に斯ういふ出稼式の移往労働には、どうしても向かぬ地方が次第に多くなって來る。國にはそれ/゛\生活の標準があって、勞働の報酬率の如きもそれに基いて自然にきまる。外國から來て働いて金を残さうとするには、それよりも低い暮しを爲し得るに限る。早い話が朝鮮人は内地に來るて貯蓄を爲し得るが、内地から朝鮮へ行っても單なる勞働では金を残すことが出來ない。従って今の日本人がそんな國を捜すとなれば、カリフォルニヤヘでも行くの他はない。彼地在來の労働者に取ってば、安い暮しをして略ゝ同じ働きの出來る出稼人は、何よりも畏ろしい競争者である故に、どんな無理をしても之を排斥するので、所謂白人濠洲主義の移民法なども公々然と主旨を言明して居る。あゝいふ國でも企業者資本家の側では、却って有色人の出稼ぎを歓迎して居るが、政治の上に勞働者の力が行はれて居るから、今のまゝでは排斥を免れることは難い。
 さうすると、第二の選擇は二つしか無い。自分等よりも生活の低い國に往って、何か別方法で金を儲ける工夫をするか、さうでなければ、従來の出稼式を改めて、土着してしまふ気になるかの他はない。支那人も追々に生活を改良して、今では決して最下等の暮しでない。それに南洋の各地も次第に人口が多くなって、支那人よりも今一段と安い労働者の居る處が幾らもある。さういふ地方に出稼しては、金をためて還ることも出來ぬわけだが、支那人は極端に辛抱強く、無理な倹約をして小金が出來ると、それに由って商賣に移って、永い間には産を爲すのである。ところがそれだけの根氣は竝の日本人に無いから、或は危險を侵し或は無理をして、荒い利得を早くつかまうとする。そこで滿洲や朝鮮などで、地みちな移住者は少しも増加せず誰も彼も官憲や大會社を利用して、割のよい仕事を探すか、さうでなければ此様な人を相手に、共喰ひをするやうな連中ばかりが横行をして居る有様であり、北海道や樺太では、いつ迄も土地の開發が思ふやうに進まぬと云ふ結果を見るのである。自國の領土内ならまだ何とかなるが、外國に出かけてそんな濡手で粟と云ふ成功が出來る筈がない。また假に出來るにしても、其様なことに向く者は日本に幾らも居らず、眞面目な移民にはその眞似は出來ない。そこで米國がたった一つの行先で、その昨年の排日が、我々の爲には大打撃のやうに感ぜられ、近隣の國土はこれ程廣いにも拘はらず、移民は八方塞がりの行詰りの如く感ぜられるのである。
 前にも申す如く、〔増〕加した人口は、出來ることなら國内で職を與へ國内で養ひたい。それがどうしても自由競争の壓迫を忍びかねて、外へ出た方がよいと考へるに至ったのである。もう其上に彼等に餘分の任務を負はせるのは無理である。永い間には追々出先の生活に入って、其國の人になることを覺悟させねばならぬ。それを腰掛にして金を作り、再び郷里に持還らうといふ目的をもって行くと、結局はごく少數の成功の爲に多数が危地を踏んで難澁をすることを、勤めた結果を生ずるのである。
 日本人は南方の人種で、夏の濕気の多い熱さに馴れ、歐洲人とちがって足を沾すことを畏れず、熱帯作物の生産には天然の適性を備へてゐる。近來惡くなったなどといふ者はあるが、その農夫には澤山の優越せる性質がある。一方に世界的なる穀物の不足は來らんとし、土地の未だ利用せられざる大面積は、今なほ經營者を待ってゐる姿である。かうしてなほこの間に有無相通の行はれないのは、他にも若干の原因があるか知らぬが、一つには十年、十五年の短期日に、成功して還って來ようといふ注文があるからである。是は實のところ眞の移民では無い。生活は至って樂でも、物價は日本のやうに高い國は、この近所にはない。物の安いのは好いことだが、其代りには多くは収入も少い。土着をして繁榮することは出來ても、財産を金に代へて持って還らうとすれば僅になってしまふ。斯ういふ理窟を考へて最初から其積りで、出て行かうといふ者もないのではあるまいが、如何にせん世間が移住を以て、桃太郎の遠征の如く考へ、非常に大きな成績を期待し黄金發見時代の如き痛快なる金儲けがないなら出ても馬鹿々々しいやうにに青年を教育して居るので、早今日ではよほど内外に弊害を生じ、此上は随分苦しい實驗をして見ないと、局面が展開せぬ有様に迄迫って居る。自由競争は強い小賢しい者には結構だが、分の惡い立場に居る者には、眞に気の毒である。限ある國の富を〔増〕加する一方の國民で分配しようとすれば、同胞の國にもにも爭ひがあり、且つ其爭いが年々に悪化する。國家として力を施さずには居られぬ所以である。
 現在の日本で最も豊かなる産物は、人の智慧と努力である。之を利用すべき機會は政治家の不注意に由って諸方面に塞がれて居る。物價の水準を高くして、輸出用の生産を困難にして居ることは其一つである。米國から小楊枝を、独逸から下駄の臺を輸入して、尚引合ふやうな物價では、手剰って心之を利用する途はあるまい。之を國外で働かせて見ようにも、この出稼根性では金を溜に行く處がない。従って僅かのこすい男が山勘の企業ばかりに没頭して、結局は日本人全體の聾價を、豫め傷つけて居るのだから話にならぬ。其弊害の根本に心付いて、早く改良の方法を考へる義務のある者が、それを捨て置くばかりか、寧ろ正しくない連中を世話して居る。物價の方はどうして引下げるかと言へば、需要を減少して下げて行くといふ。其減少すべき需要とは何であるか。奢侈品課税などで抑制し得るものはほんの小部分で、その他は主として日用品ではないか、即ち我々の小兒が餓ゑ、女房が寒がることを意味するのではないか。如何にも無情なる物價對策と評せねばならぬ。心ある者は、斯の如き無責任を宥恕してはならぬ。一日も早く各自の研究し得たる所を以て、我々の代表者を訓育し指導するやうに心掛け、標語ばかりの移民政策や、内容の乏しい生活安定策を以て一時を糊塗しようとする者を、警戒せねばならぬと思ふ。


(「定本 柳田國男」29巻pp.72~82。初出:大正14年6月「成人教育」*

*柳田は、1919年(大正8年)貴族院書記官長を辞任し翌1920年(大正9年) 東京朝日新聞社客員(現代でいえば論説委員)となったが、1921年(大正10年)から、おそらく国際連盟事務次長であった新渡戸稲造の推挙で ジュネーヴの国際連盟委任統治委員を1923年(大正12年)まで務めた。
 したがって、(もともと、南方熊楠による神社合祀への反対運動へのサポートなど、官僚としては「突き抜けている」側面のあった(やや乱暴に括れば「マイルドな『国士』」ともいえる)
柳田ではあるが)この執筆の当時、朝日新聞社客員かつ慶應義塾大学講師(民間伝承論)という純粋に民間人の立場にあった。

2016年12月14日水曜日

島崎藤村「南米移民見聞録」

国会図書館の…

デジタルコレクションで

標題の本
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1023252

を見つけました。

これは…

昭和11(1936)年6月、ブェノスアイレスで開催された世界ペンクラブの第14回総会に日本ベンクラブ代表として出席する藤村が、外務省から依頼された、ブラジルでの「在留邦人社会の実情視察、殊に同胞の情操の涵養、思想の啓発等に就いての研究」の報告書にあたるものです。

 昭和11(1936)年7月16日大阪商船の「りおでじゃねいろ丸」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1451604
で神戸を出港しサントスを経てブェノスアイレスでの大会終了後、10月始めにサントスからブラジルに入り、それから9日間、ブラジル、主としてサンパウロとリオデジャネイロ周辺を視察しています*

http://www.nikkeyshimbun.jp/2016/160824-73colonia.html

■この本の性格上…

当然ながら、そのブラジル視察についての36ページ
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1023252/23
以下の部分が、この本のいわば本体なのですが、むしろ注目されるのは、10ページ、
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1023252/10
の「船中の移民の生活」以下の、文字通り、同船していたブラジルへの移民者たちの観察録の部分で、これは、船中や上陸後の移民者たちの、大作家の筆になる客観的な記録*として貴重なものだと思います。

*もちろん
 移民者による「体験記」は数多く目にするし、

 移民監督側の視点によるものとしては、
 既報の
 辻小太郎の「ブラジルの同胞を訪ねて」(日伯協会/S05・刊)
  [S03/07/25 神戸出港の「備後丸」]
 があり、
 石川達三の「蒼氓」(改造社/S10・刊) や
 その第2・3部にあたる「南海航路」「聲なき民」(新潮社/S23?)
 http://edcutokyo.blogspot.jp/2016/10/blog-post_21.html
  [S05/03/15 神戸出港の「らぷらた丸」]
 も、小説ではあるが、この範疇に入るだろう。

 しかし、第三者の目によるものとしては、

 戦前のものとしては標記の本
  [S11/07/16 神戸出港の「りおでじゃねいろ丸」]
 戦後のものとしては
 相田洋の「航跡」(日本放送出版協会/H15・刊)
  [S34/03/03 横浜出港の「あるぜんちな丸」]
 程度ではないだろうか。

2016年12月2日金曜日

[短信]wikipedia 「アルテミオ・リカルテ」

[wikipedeia の…]


「アルテミオ・リカルテ」のアーティクル
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%86%E3%83%9F%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%86


に、同将軍の写真を提供し、加えて「参考文献」を追記しました.

なお、それとは別の、おそらく大正末期の50才前後と思われるリカルテの写真



「植民 第6号」海外植民学校校友会〔日本〕/昭和37年・刊(松原征男氏・蔵)の口絵掲載のもの
編集後記によると、卒業生の土原茂巧撮影と思われる

2016年11月11日金曜日

昭和2年の植民学校々舎

■今朝入手した…



「池ノ上 今と昔」と題する小冊子*1の6ページに


「世田谷町消防組第一部 火の見櫓落成記念 昭和二年」


と題する写真が掲載されていた。



*1 目次ページ上の前書きによると、世田谷区立池之上小学校の10年ほど前の卒業生のお母様方が編集・発刊した冊子のようである



■この写真…

これまでは、不鮮明なもの
しか手許にないためわからなかったのだが、鮮明な写真で見ると、櫓の後ろに海外植民学校の校舎が写り込んでいた。





 したがって、この写真は、櫓の南西から、北東方向を撮影したものであることがわかるが、


それと共に、写っている学校々舎2階の壁が黒っぽく塗られていることが注目される。


■開校の…

大正7年当時、ページ右上の写真のように、この校舎の2階部分は、白っぽい漆喰らしきもので塗られており、それからわずか9年後の昭和2年には、すでに黒っぽく塗り替えられていたことがわかった。*2

 この学校のことを調べ始めた当初は、当初白かった校舎2階の壁が防空上の観点、つまり空襲の目標にならないために塗り替えられたのではないかと想像していたのだが、徐々に全く別の理由で黒い壁に変わったらしいことがわかってきた。



*2 このほぼ直後に建築された女子部の校舎と寄宿舎が右端に写り込んでいる、学校の全景は、本ブログの
   http://edcutokyo.blogspot.jp/2016/07/39.html
   参照
       なお、この写真は、アングルからみて、この火の見櫓上から撮影したものと思われる。




2016年10月21日金曜日

石川達三「蒼氓」


作家の石川達三は…

1930(昭和5年)、移民の監督者として「らぷらた丸」でブラジルに渡り、このときの経験を元に、第1回芥川賞受賞作「蒼氓」*を著わしている。
http://mainichi.jp/articles/20160208/ddl/k28/040/325000c

*電子化版(第1部)は
http://bungeikan.jp/domestic/detail/53/
(日本ペンクラブ電子文藝館 所収)

http://www.ndl.go.jp/brasil/data/R/033/033-001r.html
にある写真からみても、乗船したのが「らぷらた丸」であることは間違いないようなので、昭和5年前後の同船の記録をみると

  神戸   ‐サントス
1 S04/09/28-S04/11/13
  http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1450262
  移民監督 久万俊泰

2 S05/03/15-S05/04/30
  http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1450358 
  移民監督 米増 覺

3 S05/08/23-S05/10/09
  http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1450446
  移民監督 片山良平

4 S06/01/31-S06/03/19
  http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1450489
  移民監督 中島重文

なので、4月29日撮影とされる先の写真は、2番目のそれで、サントス入港直前に撮影されたことになる。

 ただし、このときの監督は上記のとおり、米増 覺なので、石川は助監督というか監督補という立場(正式には「移民監督助手」)だったのだろう。

余談ながら…
 この時期は、いわば移民監督の「当たり年」ともいえ、船の事務長に監督を委嘱していることも多い一方で、移民業界の著名人も監督を務めている例がある。

神戸出港-サントス着

S04/10/27-S04/12/11
さんとす丸
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1450275
移民監督 小林美登利@聖州義塾

S05/03/29-S05/05/26
神奈川丸
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1450366
移民監督 今井修一@植民学校

S05/05/14-6/29
さんとす丸
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1450393
移民監督 澤柳猛雄@アマゾン興業

なお…

「移民監督なる仕事」の内容の具体例については

辻小太郎「ブラジルの同胞を訪ねて」日伯協会/S05・刊
pp.4~31

が詳しい。